大久保政権の禄制改革
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同年には使節団が帰国し、征韓論を巡る明治六年政変で西郷、司法卿江藤新平らが下野し、大久保利通政権が確立する。政変が収束し、11月には禄制改革の協議が再開され、最終処分までの過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信の提案で家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤は慎重論を唱え、木戸らは反対するが、方針として決定され、12月には再討議を行い、家禄税の創設と「秩禄奉還の法」が太政官布告されるとともに、家禄を整理するために自主的な秩禄奉還者に対して6年分の俸禄の半分を現金、残りの半分に対して秩禄公債を付与する政策を採った。秩禄公債は、7年間にわたり毎年抽選で償還対象者を選んで元金を全額支払い、それまでは毎年8%の利子を受け取るものであった。公債は政府の初期負担が少なく、また売却可能であり士族がまとまった事業資金を得ることも可能であった。士族の3割程度が応募した。 家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用する事で士族の理解を得ようとした。家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業のための資金を与えるもので、士族を実業に就かせて経済効率を図ろうとした。これらの政策は一般には受け入れられるが、禄税の使途や地域格差があるなかの一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱を危惧する意見も出る。 地租改正で農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県も出現し、また米価の変動による混乱や不満も生じていた。政府は明治8年1875年9月7日の太政官布告138号において禄高の金禄化の全国的な切り替えを実施して公債切り替えの準備が整った。続いて大隈は太政大臣三条実美を説得して秩禄処分推進の合意を得て、木戸の反対を押し切る形で明治9年1876年8月5日の太政官布告108号において、禄制の全面的廃止と強制的な金禄公債切り替えのための金禄公債証書発行条例を公布した。 これに基づいて秩禄を受けていた者の禄高は1875年の府県ごとの貢納石代相場に応じて換算金額(金禄元高)が定められ、それに応じた金禄公債の金額が定められて、翌年から家禄および賞典禄は廃止され公債への引継ぎが強制的に行われるようになった。旧大名を含むすべての華士族は金禄公債証書を受け取り、5年から14年にわたって利子を受け取り、30年以内に元金を償還することになった。毎年抽選で償還対象者が選ばれ、政府が公債証書を回収し、額面の金額を支払うことで償還が行われた。据え置き期間、公債額面、5%から10%にわたる利率は旧秩禄などに応じてきめ細かく定められた。対象の多くを占める元下級公家および下級武士の場合、利子は少額であり、インフレもあって生活は厳しかった。一方で旧藩主階級の華族は計算根拠となる家禄が旧藩収入の一割と高めに設定されており、種々の屋敷など資産も多く抱えていたために富豪となるものが続出した。公債は30年以内にすべて償還することが定められ、実際に30年後の1906年に償還が完了した。公債証書は売買可能とされ、多くの士族は売却した。金碌公債の資金の裏付けとしては、外債が発行された。 華族に対しては華族世襲財産法や第十五国立銀行の設立などの手厚い保護策がとられたが、秩禄対象の大部分を占める士族に対しては効果的な救済政策はとられなかった。
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