大久保政権下の活動
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明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された。 明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を脅かすこととなる。この頃から大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる。
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