大久保政権下の活動とは? わかりやすく解説

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大久保政権下の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)

大隈重信」の記事における「大久保政権下の活動」の解説

明治7年1876年1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題担当を命ぜられ、積極的に出兵方針推し進めることになる。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議図らず大蔵卿職権独断確保した大隈出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎向かったが、その間イギリスアメリカから抗議があったため、出兵一時見合わせる方針となった。ところが西郷独断出兵行い政府追認せざるを得なくなったこの間大隈西郷出兵止めようとしたという記録残っていない。大隈出兵後も駐兵続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵方針を取ると、それに従った5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成免職要求した大隈病気理由辞表提出したものの、台湾問題最中担当者である大隈辞職させることもできず、久光意見却下された。 明治8年1875年1月4日には「収入支出源流ヲ清マシ理財会計根本ヲ立ツルノ議」という意見書三条宛に提出し条約改正実現と、間接税重視内需拡大官営事業払い下げなどを主張している。2月11日大阪会議開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸復帰は、大隈権力基盤を脅かすこととなる。この頃から大隈体調崩したとして出仕せず、三条岩倉大久保らは大隈大蔵卿からの解任検討しているものの、後任候補伊藤が受けなかったことや、大隈上の財政家がいないことを理由大隈慰留して続投させた。しかし復帰した木戸板垣退助大隈辞任要求し大久保大隈庇護するとなった久光板垣10月29日辞職し木戸病気悪化したことで大隈への攻撃消滅することとなる。

※この「大久保政権下の活動」の解説は、「大隈重信」の解説の一部です。
「大久保政権下の活動」を含む「大隈重信」の記事については、「大隈重信」の概要を参照ください。

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