夜へ声ひき焼藷や過ぐ銀座裏
作 者 |
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季 語 |
焼藷 |
季 節 |
冬 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
現代俳句の100冊(9)『火雲』の「錨鎖」(1955年―1957年)からの一句である。太穂が40歳代句。当時は朝鮮戦争が終結し神武景気と言われていたなかでの、昼間の銀座とは違う夜の銀座。生活費を得るためリヤカーを引いている焼藷屋への優しい眼差し。他の太穂の句、 吹雪く日ぐれは車窓へ寄り寝行商婦 啄木忌春田へ灯す君らの寮 1913年、富山県で生まれ、6人兄弟の長男、本名太保。家業は料理屋兼芸妓置屋。12歳の時父が亡くなり、一家は富山を離れ、母とともに東京、横浜など転々とし、苦学しながら東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業した。 1937年24歳の時、結核にかかり療養生活を送る。療養所に「馬酔木」「石楠」などの会員がいた。「馬酔木」に入会。10月、「寒雷」創刊とともに会員となり、加藤楸邨に師事。1941年退院。原子案山子(公平)金子兜太、沢木欣一等と18人で合同句集を発行。1947年、新俳句人連盟に参加。栗林一石路、橋本夢道を知る。 1948年神奈川県職場俳句協議会を組織、機関紙「俳句サークル」を発刊。栗林一石路、橋本夢道、赤城さかえ、原公平と合同出版記念会を行う。1951年「俳句サークル」を改め、同人誌「道標」を発刊。1956年、秋元不死男と横浜俳話会を創立。1972年、「沙羅」と同人誌「道標」を合併、新「道標」の主宰となる。 金子兜太は『金子兜太の俳句を楽しむ人生』(中経文庫)の中の、「古沢太穂を偲ぶ」で「太穂は兄貴のような存在だったが、気軽に話しをするようになるのは、戦後間もなくの寒雷句会がきっかけである。俳句については、それまでの俳句の自己閉塞性を破って、社会性を指向する風潮がひろがりはじめていた時期、わたしは俳句は思想宣伝の具ではない、とまで言い切って反論した。ところが、太穂は思想を生で伝えることよりも、感性で伝えることを大事にしている・・・。」と述べている。 |
評 者 |
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備 考 |
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