変容と失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 17:19 UTC 版)
1867年冬遅く、ストウは息子の跡を追ってフロリダに行き、そこの温かい気象が書きかけの小説2冊を執筆する時間を与えてくれると考えた。オレンジパークでの最初の1週間は彼女を完全に変容させ、直ぐにフロリダに魅せられるようになった。彼女は羽が生えてきたように感じ、「若くピチピチしている」ようになったと記していた。ストウはある日、セントジョンズ川を渡って約3マイル (4.8 km) のマンダリンで局留めとなっていた郵便を受け取るために、息子と一緒に行った。彼らが川の東岸に船を漕いで行くと、ストウはオレンジの林が付属するマンダリンの1軒のコテージを恋してしまった。ストウがフロリダで変容したことは、ピューリタンのニューイングランドと同化していたことと親密であったことに根があった。すなわち寒さが人の感性と価値観を研ぎ澄ます気候での勤勉さと繁栄だった。南部の人々の気取らない態度と気候の暖かさは魅惑的だった。当初は弟のチャールズを説得してマンダリンの土地を買わせようとして、手紙を書き、「ニューイングランドの神学がやったことが、プリマス・ロックではなくここに上陸していたら、どうなったと思いますか」と尋ねた。彼女を魅了する土地と気候について書き、彼女の出版者にアイディアを押しつけたときに、文学に与えるであろう効果を考えた。「私は私の静かなパトモス島を離れることを憎む-そこに世界は無く、私は書き物のために静かな長い時間を持てる。ラルフ・ワルド・エマーソンならここで自分を「隔離」し、その電気を保つことができるだろう。ナサニエル・ホーソーンならばフロリダのオレンジの林の中で住むべきだ」と記した"。 それから1年の間に、ローレルグローブは失敗した。フレッドは経験が無く、地元商人との取引もお粗末だった。戦前ならプランテーションはほとんど自給自足だったが、フレッドはサバンナやチャールストンから運ばれてくる商品に高い金を払った。ジャクソンビルで社交の集まりに出る時は休暇を取った。思いがけずワタミゾウムシが繁殖して綿花の産品の大半が台無しになった。ローレルグローブから出荷された綿花は僅か2樽だった。ストウはこの事業が失敗だったことを理解した。フレッドはニューヨークのリハビリ保養所に移った。ストウは1867年のある時点でマンダリンのコテージと付属のオレンジ林を購入した。 柑橘類は主に地域の市場で配られ、北部の都市ではぜいたく品だった。ニューヨークのオレンジは1つ50セントほどで売られた。ストウが購入した家に着いていた土地では月にUS$2,000(2015年時点の$33,862と同等)の収入を上げた。ストウは作家のジョージ・エリオットに、マンダリンの家の改良についてその進行具合を報せ、壁紙を貼り、漆喰を改善し、建物の周りを包むベランダを作ったと報告した。巨大なオークの木は邪魔にせず、その周りにベランダを作った。その家では17人までの家族や友人をもてなすことができた。 1868年から1884年、ストウはコネチカット州ハートフォードにあるオークホルムと呼んだ邸宅と、マンダリンの家とで棲み分けた。毎年クリスマス前の数週間、そのシーズンのオークホルムを閉鎖する手配を監督し、冬の家の手配も行い、衣服、日用品、執筆の道具、家のカーペットを全て詰め、フロリダに送り出した。家族の様々なメンバーが彼女に付いて行って、彼女が「コテージ」あるいは「小屋」と謙遜して呼ぶ2階建ての快適な家で暮らした。ハートフォードでは要請で一杯となり、活動の輪の中心にいた。マンダリンの家に電話が引かれたのは1880年代になってからであり、郵便は週に1回船で届けられた。マンダリンの家では幾らかリラックスでき、1日最低3時間は執筆できた。
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