地元の伝説と言い伝え
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「だんぶり長者」の記事における「地元の伝説と言い伝え」の解説
岩手県八幡平市字平又、長者前集落の北方に米代川の源があり、ここに長者屋敷があったとされる(北緯40度10分25.28秒 東経140度58分34.1秒 / 北緯40.1736889度 東経140.976139度 / 40.1736889; 140.976139)。長者は直人(なおと)と言われた。長者前集落には現在「長者」という屋号を持つ旧家もある。屋敷に大日神を祭り、秋田県鹿角市八幡平の人たちが石堂に納めている。祭日には八幡平の村人や平又、長者屋敷の集落の人たちが、煮しめや赤飯を供えて、酒盛りをする。 当時長者は1000人の使用人と住んでいた。屋敷前の小川で朝晩食べる米の研ぎ汁が川下七里に渡って白く流れたという。そのため、この川を米白川と呼んでいた。今の米代川はそれが転化したものと伝えられている。屋敷内には長者が所有していた漆万杯、黄金億億など数多くの財宝が、朝日と夕日が差す白萩の咲くところに埋まっていると伝えられている。大日神のお告げとか、霊夢のお告げとか、易者の占いなどと言って遠くは北海道や九州からも幾十人かの物好きが探したが、その幸運を掘り当てたと言う人の噂はまだ聞かない。 平又集落に泉山という旧家がある。現在の4代前の先祖が芦毛馬(あしげうま、白い毛の馬)を飼っていた。ある年の夏、放牧していた馬が長者屋敷内に埋めている漆の入ったかめに足を入れ、右足に漆をつけていたのを集落の人が見つけた。人々はその場所を探したが、見つけることはできなかった。泉山家では木枕にこの漆を塗って保存していたという。泉山家には菊の紋がついた仏壇があり、現在も保存している。 正直な夫婦は泉を欲しい人に分けてやった。泉をもらい受けた者は、2度3度になるとその土地から取れる宝物を持参して交換するようになった。伊達郡の人からは黄金のふきめ、比内郡の人たちからは孔雀石、階上郡の人たちからは水漆、津軽郡の人たちからは真珠の珠など、東北各地からそれぞれ贈られるようになった。そして、夫婦はみるみるうちに裕福になり、贈られた宝物は土蔵を建てて入れた。土蔵は48に達し東北一の長者になった。 名久井郡からは角が一本生えた名馬が贈られた。この名馬は一夜のうちに沼の水を飲み干し、一日数百里を走るので龍馬と呼ばれていた。龍馬が住んでいた栗木田集落の上の森を龍ヶ森と言った。 長者の召使いのうちには、目、鼻、手長、足長の4人がおり、それぞれの名が示すとおりの神通力を持っていた。4人は沢山の手下を持ち、山根を招いたり、山や沢頭を切り開いて、田畑を造った。田山から瀬ノ沢を経て花輪に通じる通称花輪越や田山から兄川、畏部(ほろべ)を経て小豆沢を通り比内に通じる道路を切り開き、よく長者を助けた。人間以上に働くので、この4人と手下共を天狗と呼んでいた。天狗共は湯瀬温泉から八幡平(小豆沢)の間を渓谷(湯瀬渓谷)を切り開き橋を一夜にして架けた。これが有名な天狗橋と伝えられている。天狗共は天狗橋を架けると、秋田に通じる仙北道を拓くためにでかけた。天狗共は天狗橋を架けるのに時間がかかり、途中で夜が白々と明けはじめ、天狗共は帰ってきてしまい失敗した。この場所は夜明嶋と呼ばれるようになった。 長者は八戸に苗代を作り、これを仙北に水田を作って植えたとされる。また、各地から集まった稲を稲庭長根にハセバを作って乾燥させた。これが稲庭岳の名の始まりと伝えられている。 長者の死の後、供養のため田山に一時帰った吉祥姫の付き添いの粟生連(あわふしらじ)は病で土地の露と消え、不幸が続いた。亡骸を里外れの殿坂に葬り、庵を建てて弔った。その後、弘法大師(空海)が巡業の際にこの庵に泊まり、托鉢をしながら鉈造りの地蔵尊を安置して帰った。村人はこの庵を横堰の地蔵庵と言い、村人が亡くなるとここに葬るようになった。その後、1650年(慶安2年)3月17日に浄法寺福蔵寺の末寺として、曹洞宗の田谷山地蔵寺が建てられた。田谷とは百姓の監督のために、殿様が平時住んでいた所である。現在、地蔵寺には1358年(延文2年)5月25日の日付が記され、幕末に殿坂から地蔵寺に移されたと言われる「殿坂の碑」がある。
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