国連総会議長
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2012年9月に開会される第67回国連総会では、国連加盟国の5つの地域グループのひとつである東欧の出身者が議長を務めることになっていた。イェレミッチはリトアニアのダリウス・チェクオリスに対抗して立候補し、総会における加盟国の投票で99対85の単純多数を得て、議長に選出された。議長の選任にあたって投票が行われたのは、1991年以来初めてのことであった。イェレミッチは国連史上最年少の総会議長となった。受諾演説でイェレミッチは、紛争や不安定に伴う諸問題に取り組むうえで、国際社会が団結する必要性を強調した。 私たちの共同の努力が、人類がその苦痛を静め、その恐怖を拭い去る日に近づく一助になることを、そしてその際、将来の世代を戦争の惨禍から守るという国際連合の人々の切なる願いを推進することを望む。神の意志により、次期総会が平和の総会として歴史に刻まれますように。 イェレミッチの在任中の2012年11月29日には、138対9の賛成多数により、パレスチナに総会のオブザーバー資格が与えられた。2013年4月2日には、総会が通常兵器の国際取引の規制を目的とした武器貿易条約を採択することを促した。同条約は154対3(北朝鮮、シリア、イラン)の賛成多数で採択された。 2013年7月12日には、パキスタンの活動家マララ・ユスフザイの16歳の誕生日を記念して、国連ユース集会を招集した。この集会でユスフザイは、タリバンに襲撃されてから初めて、公の場で発言を行った。イェレミッチの在任中にはまた、4月6日を開発と平和のための国際スポーツの日と宣言する総会決議67/296が全会一致で採択された。この宣言は、イェレミッチと国際オリンピック委員会 (IOC) のジャック・ロゲ会長が主導したものであった。総会の期間中にはロゲとユニセフ親善大使のノヴァク・ジョコヴィッチが特別ゲストとして出席し、それぞれIOCと世界のアスリートを代表して演説を行った。イェレミッチは2013年9月17日に議長を退任し、アンティグア・バーブーダのジョン・ウィリアム・アッシュにその役職を引きついだ。
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国連総会議長
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「ナラーティップポンプラパン」の記事における「国連総会議長」の解説
1952年には外務大臣をつとめ、5月5日には、ラーマ9世(プーミポン)によりクロムに叙されナラーティップポンプラパン親王の名称を与えられた。1956年に国連代表として第11回国連総会の議長を務めた。
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国連総会議長
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「カルロス・P・ロムロ」の記事における「国連総会議長」の解説
1949年から1950年にかけて、アジア人として初めて国連総会議長を務めた。また、1957年に2回、1980年、1981年に4回、国連安全保障理事会の議長を務めた。
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