四月革命による失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)
詳細は「四月革命 (韓国)」を参照 1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。 この選挙では与党の不正工作は前回の大統領選挙よりも徹底された。腹心の李起鵬の副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した(1960年大韓民国大統領選挙を参照)。 1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。 同年4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。 馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。 同年4月20日、ウォルター・パトリック・マカナギー駐韓アメリカ大使(英語版)が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。 政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、同年4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した(金大中『私の自叙伝』)。翌4月26日には、パゴダ公園にある李の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、漸く下野した。建国以来12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の4月28日に、養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。 李承晩は1960年5月29日早朝に妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命した。韓国で李の見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。 1965年7月19日、李はハワイの養老施設で90年の生涯に幕を閉じた。臨終に立ち会ったのは妻のフランチェスカ・ドナーと養子であった。フランチェスカは承晩の没後、故郷であるオーストリアを経て1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。
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