商品経済と資本経済の違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 15:10 UTC 版)
「資本経済」の記事における「商品経済と資本経済の違い」の解説
こうした研究変化とその対象である現実変化の移行現象は、市場メカニズムを変え、生産条件を変え、流通や分配の仕組みを変えていく事態であるが、これを商品の拡張とみなすか、それとも別の経済ファクターが作用し始めたとみなすかで、理論地盤を大きく配置換えしてきている。サーリンズは、豚肉を食べない文化では豚肉は使用価値にはならないとして、使用価値は文化規定されているとみなし、またダニエル・ミラーは、靴は商品だが履物の物質文化があってこそだと商品を可能にする物質文化を消費社会の基盤とみなした。また、ボルタンスキーは、偉大さをいかにみなしているかに産業ブロックの違いが構成されるとした。かかる一連の理論転回と現実転回を総括考証して山本哲士は、商品の論理と資本の論理に異質な概念空間が構成されており、実際の商品経済と資本経済の違いが実際稼働していると批判規準を提示した。例えば化粧品会社は美を資本として形成し、それを化粧品としての商品へ生産するとして、前者を資本経済、後者を商品経済とし、資本の論理は唯一の至高なるものを形成し、商品の論理は最低限のものの量産をなすと、資本経済と商品経済の論理・技術が逆立するとみなし、文化資本形成をなした企業が商品経済で成功するとした。また、商品経済では生産手段を持たない労働者の賃労働がなされるだけであるが、資本経済では働く者は「文化資本者cultural capitalian」であるとしているが、マルクス『経済学批判要綱』での「労働技能」が『資本論』で労働力と概念転移されたことを、ランシエールやブルデューなどをもって考証している。商品経済は、商品やサービスを環境諸条件から分離し、その物的エビデンスの単一機能を特化し量産するが、資本経済は環境諸条件、文化諸条件を、生産者の文化資本力との非分離関係としてなす経済であり、実際に資本経済無くして商品経済はありえない、文化・環境の地盤無くして経済活動は存立しないという。マシュレーが指摘するように、研究領域が示されるだけでなく、対象の転移がなされている批判的把握が、資本経済と商品経済の概念空間の違いを浮き出させ、資本と資本経済の肯定的可能条件が示されていく。マクファーレンは、資本主義は文化であり、古代からあったとするが、それは、資本経済は古からあった、商品量産経済は近代産業からの暫時世界でしかないとした一連の考証を裏付ける。物経済はいつの時代にもあったと言えるが、物を商品化して販売する「商品経済」は産業的な量産経済において出現したものである。ここを混同するのは、諸関係の商品関係への転化にとどまらずに、商品の普遍化こそが物象化による物神主義にほかならないことの現れである。経済人類学は、生産ではない生存の経済を問題にしたことにつながる。また、イリイチは、環境論のほとんどが均質・均一の社会・商品空間に配置されているだけで、場所のバナキュラー環境を捨象していると指摘する。 商品経済は、生産物=商品の等価交換の価値形式に配備され、量産され、画一市場の自由交換へ統治されるが、資本経済は非等価の行為関係に配備され、基本的に一つの固有なプライベートな生産であり、限定市場の互酬的な戦略関係に統治される。商品経済は「いつでも・どこでも・誰にでも」のサービス関係と協働するが、資本経済は「いま・ここで・この人に」のホスピタリティ関係に協働してなされる。経験的に、いかなる経済も生活も「資本」無しには存立していないことは誰しもがなしていることであるのに、経済は商品経済の論理タームで、貨幣利潤と物質的利益の最大化の意識的追求しか認めず、成長の永続化であると物象化されて、資本の動きゆえに存立し成功しえていることが不可視にされている。
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