哲学の教育 - 五月革命以降
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「フランソワ・シャトレ」の記事における「哲学の教育 - 五月革命以降」の解説
シャトレにとって、1968年の五月革命(Mai 68)が一つの転機となった。私生活では社会党のリオネル・ジョスパンの妹ノエル・シャトレと結婚し、息子のアントワーヌが生まれた。公的には、1969年に長年勤めた高等学校教員を辞任し、五月革命の精神を受け継いで労働者、外国人を含む、すべての人に開かれた大学としてヴァンセンヌ大学(フランス語版)が創設された際に、ジル・ドゥルーズ、リオタール、ミシェル・フーコー、エレーヌ・シクスー、アラン・バディウ、ルネ・シェレール、ミシェル・セール、ダニエル・ベンサイドらの新傾向の哲学者とともに参加し、伝統的なパリ大学では扱われることのなかった分野を研究対象とする新しい学部を創設。シャトレはフーコー、ジル・ドゥルーズとともに哲学科を創設し、ギリシア哲学を担当。フーコーとジル・ドゥルーズは哲学史を担当し、それぞれ独自の研究方法やテーマを紹介した。シャトレはまた、哲学の「教育」という観点からも、講義形式だけでなくカリキュラムすら廃した哲学の「実践」を提唱した。 だが、歴史学の助手を務めたミシェル・ヴィノックが「フランス左翼行動主義の荒療治(abcès de fixation du gauchisme français)」と呼ぶヴァンセンヌ大学の試みは、運営面で多くの問題を抱えていたため、1980年にパリ郊外のサン=ドニへの移転を余儀なくされ、パリ第8大学として再出発することになった。 1983年にシャトレはジャック・デリダ、ジャン=ピエール・ファイユ(国立科学研究所)、ドミニック・ルクール(パリ第7大学)とともに、高等教育制度から独立した開かれた哲学のための国際哲学コレージュを創設した。これはヴァンセンヌ大学における哲学教育・実践の反省を踏まえてのことであり、同時にまた、「前衛」哲学の新たな試みであった。 この間、シャトレはパリ第1大学やパリ第3大学の政治思想史の講座、パリ政治学院の哲学のセミナーを担当し、パリ第10大学の政治社会学・哲学・人類学研究グループに参加した。 シャトレは1970年に発表した『教員の哲学』において、哲学教育の批判的分析だけでなく、フランス教育制度(特に大学教育)において哲学をどのように位置づけるか、哲学が社会においてどのような役割を担うべきかを問い直す必要があるという。そしてこのためには、教育課程の見直し、教育改革、教育機関の民主化よりむしろ、歴史との関連で哲学の意味を捉えなおすことによって、教育の問題をより広い文化的枠組みのなかに位置づけることが重要になる。この意味で、ヴァンセンヌ大学の試みは、従来の学問領域の「外に出て」、演劇、映画、音楽といった文化領域を対象とすること、言い換えるなら、「芸術の力を動員すること」であったし、哲学の教育は今後も、社会における思想の自由、文化に対する「権利」につながるものでなければならないと語っている。 1974年、シャトレが監修した『哲学史』(邦題『西洋哲学の知』)に対して、アカデミー・フランセーズのボルダン賞が与えられた。 1985年12月26日、パリにて死去、享年60歳。
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