名称と表記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:18 UTC 版)
縄文の語は、モースが『大森介墟古物編(Shell Mounds of Omori)』において大森貝塚から出土した土器をCord Marked Potteryと命名したことに由来する。この語は当初1879年(明治12年)に矢田部良吉によって索紋土器と訳されたが、その後1886年(明治19年)に白井光太郎が用いた縄紋土器の語が東京人類学会において広く用いられるようになった。縄文の表記は神田孝平が1888年(明治21年)に用いており、これが縄紋から縄文へと表記の主流が転換する契機となったとの認識が通説となっているが、里見 (2015, p. 218) はこの時点においては誤植にすぎなかったと推察している。 縄文の表記の使用は1920年代から1940年ごろにかけて拡大するが、それ以降も長谷部言人や山内清男は縄紋の表記のほうが適切であると主張しており、21世紀初頭現在においても縄紋の表記を用いる研究者はいる。佐原真によると、師である山内が縄紋の表記を用いたのは研究史的な経緯を尊重してのことであり、自身が同表記を用いるのは、模様には糸偏をつけることにすれば甲骨文などの文字と区別がつくという分かりやすさを考慮してのことだと述べている。『日本考古学事典』(三省堂、2003年)の「縄文土器」の項(小林達雄)は、紋章や指紋を文章や指文とは書かないように、文様は文字ではないから紋様と書くべきであり、土器の文様も縄文ではなく縄紋とすべきとする主張により縄紋の表記が用いられているとしている。
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名称と表記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 16:15 UTC 版)
古くは表記が一定せず、『日本書紀』では「飛驒」、『万葉集』では「斐太」、『国造本紀』や『賦役令』では「斐陀」と書かれている。このほか「卑田」「比太」「飛駄」「飛弾」の表記も存在した。 8世紀初頭までは「斐陀」や「斐太」などと表記されることが多く、飛騨地方では「斐太」を企業名に採用している例も多い。岐阜県立斐太高等学校の「斐太」表記は万葉集に由来する。 「飛驒(飛騨)」と表記されるようになったのは和銅年間以降と考えられている。 「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『続日本紀』に文武天皇の治世下の大宝2年(702年)夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『万葉集』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。 『和漢三才図会』七十にある飛騨国風土記の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元美濃の内なり。住昔(むかし)、江州の大津に王宮を造りし時(天智天皇造営)、この郡より良き材(き)を多く出して、馬の駄に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛駄の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『日本古典文学大系』(の脚注)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。 「飛驒」と「飛騨」については、本来は騨の字ではなく驒の字を用いて飛驒国と表記した。高山市の飛騨高山まちの博物館の設置条例では正式名称として「飛騨」の字を採用している。
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