名古屋火力発電所の建設
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関西区域における東邦電力の電源は、上で見たように購入電力も含め水力発電によるものが主力をなしたため、成立当初は冬の渇水期になると名古屋方面において供給電力が不足し、停電発生の原因となっていた。この対策として名古屋市内に大型火力発電所を新設する方針を固め、1924年4月社内に名古屋火力建設所を立ち上げ、飛騨川開発に並行して名古屋火力発電所の建設に取り掛かった。所在地は名古屋市南部の大江町。水力発電重視から「水火併用」の発電体制へと転換する当時の電力業界の潮流を踏まえ、渇水期における補給用発電所としての役割を担う。欧米における大容量・高性能火力発電所建設にならい最新式の大型設備が採用された点が特徴で、出力35,000kWと当時の日本では最大規模のタービン発電機(GE製)が2台設置された。 着工は1924年6月。発電機1台を設置する第1期工事が同年10月16日に竣工、もう1台の発電機を設置する第2期工事も翌1926年12月6日に完成し、設備容量70,000kWの大型発電所が竣工した。大型ではあるが渇水期の補給を使命とするため年間を通じて連続稼働するものではなく、稼働後6年間の年間稼働日数は多くて122日(1926年度)、少ない場合はわずか11日(1931年度、稼働時間で見ると51時間10分)であった。従って極力建設費を圧縮するよう送電の安定にかかわる部分以外では簡素な設計とされている。送電線は、水力発電の電力系統と繋ぐべく岩塚変電所との間に77kV送電線が架設された。 下記#広域連系と周辺事業者の系列化にて詳述するが、1925年7月、東邦電力は名古屋方面の余剰電力を送電すべく名古屋火力発電所から浜松変電所へと至る浜松送電線を完成させた。2年後の1927年8月にはその途中に豊橋変電所を新設し、豊橋方面の電力系統との連絡も成立させる。さらに1927年12月、同じく名古屋方面の電源から送電させるべく四日市止まりの送電線を奈良県の高田変電所まで伸ばし、奈良方面の系統とも繋げた。こうして東は浜松、西は奈良へと広がる送電線網が出現するが、その一方で飛騨川以外の水力発電所建設は限定的であった。この時期の飛騨川以外の新規水力発電所には、旧北勢電気の計画を引き継ぎ1928年に完成させた木津川の木津発電所(京都府、出力1,007 kW)がある。 また岐阜電力の統合に加え、1925年5月に静岡県内の発電専業事業者引佐電力(1923年11月開業)から事業を買収し、2か所の発電所(出力計230kW)を引き継いだが、翌年には地元の都田水電へと両発電所を譲渡している。 1929年6月末時点での東邦電力関西区域(奈良支店区域除く)の発電力は水力24か所56,778 kW、火力6か所66,250 kW(うち名古屋火力発電所52,000 kW)であり、他に計144,420 kW(うち日本電力からは50,000 kW)の受電があった。また奈良支店区域の発電力は水力6か所2,957.7 kW、火力2か所1,800kWで、受電は計7,500 kW(うち大同電力6,000 kW)であった。
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