名古屋社中での活動
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寛政元年(1789年)3月松坂から本居宣長が名古屋に来訪すると、27日木田行に随行した際正式に入門し、『本末歌』注解の蔵版を確約した。『本末歌』の件は実行されなかったが、その後『古事記伝』と平行して宣長の他著の出版に携わり、松坂の宣長と頻繁に書簡を交わした。 寛政4年(1792年)3月7日から24日まで宣長の名古屋再訪した際、宿を提供し、信頼関係を深めた。寛政5年(1793年)宣長が上京の帰途名古屋を再訪した際、松坂まで随行し、5月まで滞在した。 寛政6年(1794年)4月8日桑名町からの大火で家が半焼し、板下の一部を失った。この頃多忙となった鈴木真実に代わり名古屋社中の世話役を務めるようになった。 寛政8年(1796年)3月江戸、8月京都を訪れたが、目的は不明。寛政11年(1799年)8月にも京都を訪れたが、『神代紀髻華山蔭』出版関係の用事と思われる。
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