名古屋移転後の久々利九人衆
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「木曾衆」の記事における「名古屋移転後の久々利九人衆」の解説
名古屋移転の翌年(寛文八年)千村九右衛門正古が隠居を願い出たところ、尾張藩ではこれを新規召抱同様と見なして、「無勤功の輩は減ずる」の例を適用して、高200石の内、150石のみ悴の小十郎正任に与えた。隠居仰付けられた九右衛門は「御朱印地で減ぜられるべきものでないのに」と嘆き、我らばかり一族の中で減ぜられては面目がないといって、父子共に退去してしまった。その翌年、同族の千村助右衛門重佐に命じて政秀寺に父子共にいるのを尋ね出し御預けとなり、知行屋敷共に召上げられてしまった(後に復活し100石を給せらた。) 第二は、寛文八年申五月二四日、山村次郎右衛門宅へ山村清兵衛が来て、話すうちに争いとなり、次郎右衛門が清兵衛を切り伏せ、次郎右衛門自身は自殺した。これによって両人居屋敷知行・久々利に残っていた在所屋敷等召上げられた。この両人争いの原因については記録が無いから分からないが、察するに名古屋移転が彼らが初めに考えたことと相違した尾張藩の待遇であったからではなかろうか。これについて「岐蘇古今沿革志」は次のように記している。 寛文八年九人衆の内二家(清兵衛、次郎右衛門)断絶 慶長五年八月朔日東照公(家康)御朱印木曽諸奉公人(木曽衆を指す)中へ被下たり 此御朱印先年平右衛門様へ被遣之戻り不申 久々里(利)に有之候 右之御朱印有之に付(九人衆は)尾州にて千石以上中寄合之格式 木曽(甚兵衛) 久々里(平右衛門)御出勤の節は被罷出御両所様(甚兵衛 平右衛門)の次に並居殿様(尾張徳川家)より御言葉も有之由 御暇も万事御両所様に相つづ出申候 其上知行所に引籠られ無役 勤は無之 御子息達善悪の訳無之手足さへ付き候へば 御両所様へ御頼み家督譲り まことに天下無双の楽人にて候処 人男は又十分は欠く申ごとく 大分の御知行 先祖の餘慶 自然の冥加も限りあり 誠は天之通也と申如し尾州御老中成瀬主計殿と申御出頭有之候 山村清兵衛殿千村道止老へ至極御懇意ニ付 右の御朱印被懸御目候処 とかく尾州へ出勤候ハバ 外□ 且は立身も可被成と色々だまされ 不残罷出 夫より段々不仕合つづき数年 我ままも不相成 山村清兵衛殿 千村二郎右衛門殿 喧嘩以来 只今九人衆うろたへ申候 -以下略- 右両人の喧嘩は寛文八年五月二四日にて両家断絶という。以上の二事件で分かるように、名古屋へ出た九人衆は子孫繁栄とはいかなかったようである。これに対して本家格の山村甚兵衛や千村平右衛門は勝手に行ったからと見放していたかというと、そうではなくそれなりに一族として手をつくしている。次にその例として、八代目の甚兵衛(良啓(たかひら))の口上覚を中津川日記(山村家日記)から、略記すると、「同名清兵衛儀の先祖は久々利九人之内にて 私先祖と同様木曽に於て忠功の者に御座いますが 今の清兵衛の祖父の代に同格の千村次郎右衛門と喧嘩仕り両家とも断絶しました 次郎右衛門は手出しをした方であるが其後御願して仕合能く知行を下され現に寄合役を勤めて居ります。当清兵衛は別紙の通り(書付なし)未だ御扶持米(何程か不明)で相勤めて罷居りますが、出来得れば先祖の勤功を以て減知の内只今頂戴して居ります御扶持給高程知行に御振替候様に私から御願申呉れとの事で御座居ます 六ケ敷い事とは存じますが 別紙認□を御目にかけますから御内覧成し下さいます様御願申上げます」と記されている。清兵衛と次郎右衛門も両家断絶後、年月不明であるけれども両家とも復活したが、次郎右衛門方は先に手出ししたにかかわらず知行を貰っている(旧知の内一〇〇石)が清兵衛方は切米取の身分であるから、これを知行に振替える即ち家格を元の知行取の身分にして戴きたいと願ったもので、たとえ禄高は少くても元の知行取となって由緒ある家柄の回復をと、本家格の甚兵衛良啓より御伺を出したものである。 ==当初の木曾衆の石高== 山村甚兵衛良勝 4,600石 山村道祐良候 (良勝の父) 1,300石 山村清兵衛道休 (良勝の弟) 700石 山村八郎左衛門 (良勝の弟) 500石 山村次郎衛門 (八郎左衛門の子) 600石 千村平右衛門良重 4,600石 千村藤右衛門 (良重の弟) 300石 千村助右衛門 (良重の従弟) 700石 原図書助 800石 三尾将監長次 500石 馬場半左衛門昌次 1,600石 以上 16,200石余 18ケ村
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