各務原工場時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 10:18 UTC 版)
(川崎産業→川崎岐阜製作所→川崎航空機工業→川崎重工業→川重車体工業) 第二次世界大戦の敗戦により、日本はGHQから一切の航空機関連活動を禁止され、航空機専業メーカーであった川崎航空機工業は、市場と顧客と仕事のすべてを一挙に失った。そこで他の軍需企業もそうであるが、残存の製造設備と資材を活用し民需生産に転換して会社の再建を目指すこととし、同社の岐阜工場では、家庭用品、農機具、電気器具、自動車部品、紡績機など様々な製品を製造した。そうした中で1948年より同社戦後初の本格的な事業として、航空機の製造技術を生かしたバス車体の製造に乗り出す。 終戦直後ごろまでの日本国内製のバスボディはボディ・オン・フレーム構造で製作されるのが普通であったが、車体重量が重いことが難点であった。これに対して川崎産業では、航空機で用いられていたモノコック構造を当初から採用した。モノコック構造の車体は強度部材の重複がなくなって従来より格段に軽量化され、ひいては車両性能の向上にも寄与した。製造工程には航空機製造用であった設備と技術が用いられ、複雑な形状の外板は大型プレス機で一気に加工成型された。なお、同時期から1950年代初頭にかけて富士産業など、他の大手コーチビルダーも相次いでモノコック構造を採用している。 戦前に六甲号を製造していた川崎車両部は、戦中の九四式六輪自動貨車を縁にヂーゼル自動車工業株式会社(戦後のいすゞ自動車)との関係が深く、1950年より同社と提携を組み指定車体メーカーとなった。 1966年に日本の路線バスボディでは初めて、Hゴム支持のスタンディーウインドウを廃し、フル・アルミサッシの2段窓を導入した。また一世を風靡した通称「オバQ」ボディやいすゞ・キュービックなど、その斬新なデザインや技術力には定評ががあった。モノコックに代わるスケルトンボディの採用は1984年と業界内ではやや遅かった。 他に地理的にシャーシ工場が近接していた関係から、かつては中京・信越圏のバス事業者向けを中心に、三菱自動車工業製やトヨタ自動車製、日野自動車製、日産自動車製(日産ディーゼルの前身にあたる民生産業のOEM)のバスにも架装していた時期があるが、1974年以降はいすゞ製バス以外の製造実績はない。 川重とライセンス生産していたコーチビルダーもあり、戦前に乗用車「日光号」を造った東京都港区の安全自動車はバスボディ製造も手掛けていたが、1956年に安全車体工業としてバスボディ部門を独立、1964年には川崎航空機と提携してライセンス生産を行っていたが、1968年にバス部門は川崎航空機に統合されている。また1960年代から1970年代にかけては熊本県の松本車体製作所が川崎航空機工業および川重車体工業のバスボディをライセンス生産し、県内のバス事業者に納入していた。 また関連企業として、川崎航空機岐阜工場の協力会社として発足した岩戸工業があり、バス車体の更新修繕やファンタスティックバスのカスタマイズを手がける。 川重ではバスボディだけではなく、トラックのボディ架装も多数手がけていた。
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