台湾派遣
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第二次世界大戦後、台湾は中華民国国民政府に接収され、日本の統治は終わりを告げた。1946年、彭孟緝は台湾に派遣され、高雄要塞の司令官に就任した。その翌年の1947年に二・二八事件が発生すると、彭は高雄要塞司令として反乱の鎮圧にあたった(後述)。このときの活躍が最高当局に賞賛され、彼は台湾全省警備総司令(中国語版)へ昇進した。また、後に台湾省保安副司令、台北衛戍司令、参謀総長などの要職を歴任することになる。 1949年に大規模な学生運動が勃発すると、台湾省政府主席の陳誠はこれを鎮圧する決定を下し、当時台湾省警備総部副総司令だった彭に「首謀者」を拘束するよう命じている。同年12月16日、彭は李友邦(中国語版)、楊肇嘉(中国語版)、李翼中(中国語版)、游弥堅(中国語版)、朱文伯、劉兼善、杜聡明、陳啓清(中国語版)、李連春(中国語版)、華清吉、林日高(中国語版)、陳尚文(中国語版)、陳天順、陳清汾、顔欽賢(中国語版)、鄒清之とともに台湾省政府(中国語版)委員に任じられ、副司令を兼任した。 中華民国政府が1949年に台湾へ移ると、翌年に革命実践研究院(中国語版)軍官訓練団が設立された。彭孟緝はその主任に任じられ、この後高級班や石牌(中国語版)班などの訓練機構も設立された。1952年には陽明山革命実践研究院の主任に就任している。 1954年に陸軍副参謀総長へ昇進。同年8月に参謀総長の桂永清(中国語版)が病没すると、蔣介石によって副参謀総長の彭孟緝が参謀総長に任じられた:78。1957年には陸軍総司令(中国語版)と台湾防衛司令部総司令を兼任するようになり、1959年に陸軍一級上将へ昇進、参謀総長に再任された。1963年5月、蔣介石は彭孟緝の任期延長を命じ:104、1965年6月には総統府参軍長(中国語版)に任命した:110。 1967年、彭孟緝は駐泰中華民国大使(中国語版)としてタイへ派遣され、1969年には駐日中華民国大使として日本へ派遣された。日本には1972年まで駐在していたが、この年の日中共同声明で日本と中華民国は断交したため、彭が最後の駐日大使となった。 帰国後の1972年、彭孟緝は総統府戦略顧問(中国語版)に就任した。晩年は台北で過ごし、1997年に死去した。
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