台湾海賊対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
17世紀初頭から、中国大陸に進貢にむかう琉球船が台湾を拠点とするオランダ船に海賊行為を受けていた。中国(明)と敵対していたオランダが、中国船と同じジャンク型である琉球船を攻撃したのである。これに対し琉球は、1636年にこの事態を薩摩藩に訴えた。薩摩藩は、長崎のオランダ商館にかけ合い安全保障の目印となる旗と通行証を譲り受け、これらを琉球に渡した。琉球は薩摩藩から譲り受けたオランダ旗を掲げ台湾近辺を航行することで、オランダからの攻撃を免れたのである。 一方1662年には、明朝滅亡後に清朝と抗争した鄭氏一族がオランダ勢力を台湾から追い出し、この地を新たな抗争の拠点とした。琉球は1663年に清朝と冊封関係を結んだために鄭氏から敵対勢力と見なされるようになり、進貢の際に攻撃対象となった。こうした事態を打開するため、羽地は琉球船の航海安全の保障を鄭氏に求めるべく薩摩藩に依頼した。オランダの時と同様に、長崎貿易を通じて鄭氏と太いパイプをもつ幕藩制国家を介し状況を打開しようとしたのである。 薩摩藩や長崎の尽力により台湾側と交渉が成立した事例も存在するが、その後も海賊の被害が頻発したため、琉球は薩摩藩の許可の下で、進貢の際に武装するなどの自衛手段に努める他なかった。
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