台本に関与した人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:24 UTC 版)
マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。 エジプト総督イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。 エジプト考古学者オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aïda) のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。 パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また6月には原案の内容を膨らませたフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意で、原台本の段階で書かれた可能性が高い。 ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も彼の普段の創作の流儀に従い、台本作成全体に関してギスランツォーニに数々の指示を与えている。その指示は出演者の演唱に関し、言葉の語り方にもイメージを膨らませた細部にわたるものであったことが、ミラノ在住だったギスランツォーニと交わした書簡から明らかになっている。 ヴェルディの妻ジュゼッピーナ。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女自身有名なオペラ歌手であり、夫以上にフランス語が堪能であった。 イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による上演用台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。 1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている)。 またこれとはまったく別個に、1756年にピエトロ・メタスタージオによって著され、ニコロ・コンフォルティ(1756年初演)、ニコロ・ピッチンニ(1757年初演)、ヨハン・アドルフ・ハッセ(1758年初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』(Nitteti) こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。 なお、マリエットの「原案」で "Aïda" にトレマ記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では "Aida" と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。
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