取り付け騒ぎと日銀特融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:54 UTC 版)
東京オリンピックの終焉とともに、日本経済は低迷し始める(オリンピック不況)。その影響は証券市場にも現れた。成長を前提としていた経営は行き詰まり、1964年(昭和39年)には山一證券が赤字となる。同年には、サンウェーブ工業や日本特殊鋼が倒産。翌年には山陽特殊製鋼が負債総額当時最悪の500億円で倒産した。そして、証券各社の決算も軒並み赤字となった。 1965年(昭和40年)5月、大蔵省は在京新聞各社に山一證券の再建計画がまとまるまで報道の自粛を要請した。しかし、要請外にあった西日本新聞が5月21日朝刊で「山一證券 経営難乗り切りへ/近く再建策発表か」という記事を1面に載せた。これを受け、他の新聞社も同日付夕刊トップで一斉に追随した。当日、山一證券は主要取引先である日本興業銀行、三菱銀行、富士銀行の3行のトップとともに記者会見で、「山一證券再建案」を発表した。しかし、このことが却って世間に「山一は危ない」というメッセージを与え、翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した。翌週にも騒ぎは続き、28日(金曜日)は割引金融債の償還日でもあったため、一層多数の個人客が払い戻しを求めて山一の支店に行列を作った(取り付け騒ぎ)。 この事態を受け、5月28日夜、大蔵省、日本銀行、主力3行のトップが赤坂の日銀氷川寮に集まった。会合では日銀特融しかないという点では早々に一致したが、貸出金利や方法など、細かい点で意見が合わなかった。遅れて参加した当時の大蔵大臣田中角栄は、最初は黙って参加者の話を聞いていたが、三菱銀行頭取の田実渉が「こんなにごたごたするようなら、取引所を2、3日クローズしてはどうですか」と発言したのを受けて、「手遅れになったらどうする!それでもオマエは頭取か」と一喝した。この発言に場は凍りつき、日銀特融は一瞬のうちに決まった。 同日午後11時半、田中蔵相と日銀の宇佐美洵が記者会見を行い、「無制限・無担保」で興銀・三菱・富士を通して融資を行うことが発表された。この時、実際には貸出枠240億円、経営陣の私財を担保にする条件であったが、田中蔵相の判断で、「無制限・無担保」を強調した。この発表により騒ぎは沈静化した。 後に田中角栄は、この日銀特融(日銀法25条の発動)が自分の政治史上で一番印象に残ったことだと回想している。
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