取り付け線路の工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:45 UTC 版)
深坂トンネルの前後の取り付け線路の工事も順次進められた。木ノ本から近江塩津へ取り付く区間には延長1,707メートルの余呉トンネルがあり、トンネル内から磁流鉄鉱石とモリブデンが出て、戦時中のことであったため鉱石の掘り出しに鉱山監督局から支援があった。物資の節約のために、トンネル側壁を石積みにするなど苦心したが、1943年(昭和18年)には人員が南方へ派遣されるなどして工事が中止となった。戦後再開時には、トンネル内で支保工が崩落しているなどの荒れた状態となっていた。 敦賀側の勾配緩和のための、新疋田-敦賀間の上り線用の線路については、1940年(昭和15年)から建設が開始された。ループ線を構成するトンネルである第一衣掛トンネル、第二衣掛トンネルには1941年(昭和16年)から着手した。第一衣掛トンネルについては1943年(昭和18年)に導坑が貫通し、切り広げと覆工も一部の区間で完成していた。しかしこの年、この区間の工事は中止された。 第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)から工事が再開され、この年第二衣掛トンネルについても導坑が貫通した。半径400メートルの曲線トンネルであるため測量に苦労したものの、ほとんど誤差なしに貫通することができた。資金不足のために、これ以降は細々と切り広げや覆工の工事が続けられた。1953年(昭和28年)2月に第二衣掛トンネルで発破をかけたところ、切羽が崩れて水を含んだ砂が流れだし、作業員2人が埋まって殉職するという事故があった。同年9月、工事が中止となり、底設導坑を仮巻コンクリートで覆って閉鎖した。 このため深坂トンネルの開通時点では、当初計画では下り列車を通すことになっていた、新疋田駅から鳩原信号場までの連絡線が整備されることになり、この時点では上り列車に対しては依然として25パーミル上り勾配がこの区間に残ることになった。
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