南満洲電気時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 20:03 UTC 版)
大正時代になると、経営の一時的な不振や政党介入などの問題が起こりつつも、南満州鉄道が関東州・鉄道附属地で行った事業は日々拡大し、発展を遂げて行った。 ここで持ち上がったのが、一部事業の分社化である。南満州鉄道が鉄道会社でありながらインフラストラクチャーまで担当していたのには、附属地行政を一手に担うためという理由の他、当初関東州や鉄道附属地に対して政府も民間もどうやって経営すべきか思案投げ首であり、いざ開発に必要な事業を興そうとしても投資家が尻込みをしてしまう状態であったため、やむを得ず一緒に行っていたという理由があった。しかしこの時代になると関東州・鉄道附属地ともに大発展を遂げ、事業の一部を独立させたとしても充分に一企業として採算が取れる見込みが立ったため、それら兼業を余儀なくされていた部門を分社化しようとしたのである。 結果、電気作業所もその対象となり、1926年5月21日に南満州鉄道100%出資の完全子会社である「南満洲電気」として独立することになった。これに伴い本社が長門町から、中心部・西通の西端にあたる常盤橋交差点の角に移転している。1929年9月には本社ビルの電鉄ビルディングが竣工。当初は中心部の外れであったが、1937年に大連駅が眼の前に移転、一躍街の中心部に本社を構えることになった。 会社設立後、本業の電力事業は周辺の電気会社を合併することによって拡大を続けた。1926年9月には海城電気と営口水道電気の2社を合併、海城・鞍山・湯崗子に営業域を伸ばした。そして1927年2月には、かねてから親会社の南満州鉄道が筆頭株主となり、事実上経営権を握っていた瓦房店・大石橋・遼陽・鉄嶺・四平街・公主嶺・范家屯の各電力会社の株を譲渡を受け、さらに同年12月には開原満洲電気の筆頭株主となって開原の電力事業を手中に収めた。これにより、関東州及び鉄道附属地の大半が当社の営業域となった。 軌道部門は「満電電鉄課」として改組され、さらに路線の延伸を進めた結果、1927年に営業距離33.8キロ、路線延長67.0キロと最大を記録した。この数字は市内の路線整理により翌1928年には営業距離32.7キロ、路線延長66.8キロに落ちたが、それでも内地の大都市の路面電車に負けない規模を保っていた。 また新事業として、1926年には軌道部門との兼営の形で大連市内でのバス事業計画も持ち上がった。しかし1927年3月にこの営業免許を出願した際、かねてから経営難に陥っていた「旅大自動車」の事業引き継ぎを関東庁より持ちかけられたため、そちらが優先されることになる。これにより1927年6月19日に旅大自動車を合併、「満電電鉄課自動車部」として旅順-大連間と旅順市内でのバス事業を開始した。翌1928年4月1日には大連市内でも営業を開始、郊外線を四方に開通させて関東州内のバス事業を一手に担うことになった。
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