南満州鉄道理事時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:00 UTC 版)
無罪となった後、元鉄道大臣で南満州鉄道(満鉄)総裁の仙石貢の誘いにより、1930年(昭和5年)7月に南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事(商事部担当)に就任。 1931年(昭和6年)9月に勃発した満州事変に対して満鉄首脳部が全体的に事変拡大反対の姿勢を取る中、十河は満鉄理事の中でただ一人関東軍を支持した。十河は事変拡大に消極的だった内田康哉満鉄総裁と本庄繁関東軍司令官の会談を設け、内田を急進的な事変拡大派に転向させることに成功する。この会談以後、満鉄は関東軍に協力して満州事変の拡大を進めていった。 1932年(昭和7年)1月、満州国の経済政策立案を行う機関として満鉄経済調査会が設置され、同調査会の初代委員長に就任する。 1934年(昭和9年)7月、任期満了により満鉄理事を退任。 1935年(昭和10年)12月、華北の経済開発を進める国策会社として興中公司が設立され、同社社長に就任。 1937年(昭和12年)2月に誕生した林銑十郎内閣において組閣参謀を務めるも、林内閣は4か月という短命に終わる。 1938年(昭和13年)11月、興中公司が北支那開発株式会社の子会社になると共に興中公司を離れる。 終戦直前の1945年(昭和20年)7月、故郷の愛媛県で第2代西条市長に就任。
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