南島前史とは? わかりやすく解説

南島前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:36 UTC 版)

琉球侵攻」の記事における「南島前史」の解説

奄美・琉球日本大和)との交易は貝の道に知られるとおり古くからあった。時代下り大和守護大名戦国大名南島交易実権掌握しようと目論む南九州島津氏7代島津元久1410年多数南方物産足利将軍献上している。15世紀後半になると細川氏大内氏海外交易を巡る対立から、堺商船紀伊水道南下し高知沖を通り南九州経由して南島至った。これに対し大内氏周防灘から東九州沖、南九州経由して南島へのルート取りいずれの勢力島津勢力圏への寄港警固依頼をしており、これにより島津氏朱印状発給など、大和側から交易独占事実上持つようになった。これに関し1472年尚円王から僧に持たせた書簡や、1559年首里天界寺の僧と世名城大屋子を派遣において、琉球側は諒解する旨を伝えている。1516年には備中国三宅和泉守国秀が琉球攻め入るため12隻の船団坊津入港、これに対し島津氏交易独占侵すものとして幕府許し得て三宅船団尽く討ち滅ぼしている。以上のように島津義久の代、1570年代以前は、島津氏琉球表面的ながらも修好関係を保っていた。 実際背景としては、琉球王国成立した15世紀半ば以降奄美大島群島交易利権等を巡って王国日本との衝突起きていた。それ以前15世紀には奄美南部沖永良部島与論島は既に王国支配下入っており、1466年までには大島喜界島など奄美群島全域王国支配下入った。(なお、大隅諸島種子島屋久島古代から大隅国一部であり、トカラ列島はこの時期薩摩国寄りの日琉両属関係にあった。) この時期日本本土室町末期から戦国時代真っ最中であり、薩摩大隅守護の島津氏も本土での戦争掛り切りであった。しかし、島津義久の薩隅日統一九州攻め豊臣秀吉朝鮮出兵経て徳川氏治世至り戦国勇名轟かせ島津氏秀吉関ヶ原連敗続き薩摩藩としての地場固め兼ねた南進現実味帯びてくるようになる侵攻直前時期である17世紀初頭は、後述朱印船貿易が始まるが、島津氏琉球との貿易利権独占狙い琉球王国に対して島津氏渡航朱印状帯びない船舶取締り要求王国側がこれを拒否するなど従来善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり、その両者緊張関係が王国への侵攻に至る過程大きく影響した考えられている。 なお、琉球侵攻時点では徳川幕府鎖国政策始まっておらず、琉球侵攻3年後1612年から段階的に鎖国政策進められた。

※この「南島前史」の解説は、「琉球侵攻」の解説の一部です。
「南島前史」を含む「琉球侵攻」の記事については、「琉球侵攻」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南島前史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南島前史」の関連用語

南島前史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南島前史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの琉球侵攻 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS