十勝丸修復工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)
十勝丸は1955年(昭和30年)9月20日引き揚げられ、11月20日に飯野重工舞鶴造船所へ入り修復工事を受けた。車両甲板より上を喪失しており、これら喪失部分は全くの新造となった。車両甲板は檜山丸型にならい、レールを薄い鋼板を介して車両甲板に溶接することで枕木を廃し、その分、軌道面を下げて車両甲板から船橋楼甲板までの高さを従来より20cm低い4.8mとし、さらに甲板室も、従来遊歩甲板にあった高級船員室の一部を船橋楼甲板へ下げ、重心の低下を図る一方、無線通信室は檜山丸型同様、操舵室との連携を考慮し、遊歩甲板から1層上げて、操舵室後ろに隣接配置された。また従来、車両甲板外舷上部にあった通風採光用の開口部は廃止され、船橋楼甲板船尾両舷の救命艇ボートダビットには、ブレーキを外すだけで救命艇が自重で舷外に振り出される重力型ボートダビットが採用された。損傷の激しかった船尾部修復に際し、従来の1枚舵から操縦性の良い2枚舵に変更されたが、檜山丸型同様、2枚の舵は機械的につながっており、左右別々に動かすことはできなかった。これを動かす操舵機も、従来の汽動式から、檜山丸型と同じ電動油圧式に変更された。この操舵機は2台の7.5kW交流かご型誘導電動機駆動アキシャルプランジャ式可変吐出量型油圧ポンプ(ジャネーポンプ)で造る油圧で、舵を動かす油圧シリンダーのピストンを駆動するものであった。交流電源故障時に備え、蓄電池を電源とする7.5kW直流電動機1台を手動クラッチを介して片方の交流電動機に接続できるよう設置し、交流電源故障時には、これで1台の油圧ポンプが駆動され、動力操舵が維持された。 従来、船底から車両甲板までであった船首隔壁が船橋楼甲板まで延ばされ、車両甲板下の水密区画も、最大のボイラー室を前後に分割する水密隔壁が増設され、水密隔壁9枚、水密区画10区画となった。従来から、ボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の間の3枚の水密隔壁には、それぞれ手動式水密辷戸が設置されていたが、増設の前後部ボイラー室間の水密隔壁にも水密辷戸が設置され、計4ヵ所となった。この開閉を手動式から、操舵室からも遠隔操作で開閉可能な電動式に改められたが、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事件を受け、機械室の前後(後部ボイラー室と機械室の間、機械室と車軸室の間)には、発電機が止まっても蓄電池で駆動できる直流電動機直接駆動方式水密辷戸が設置され、残り2ヵ所は檜山丸型と同じ交流電動機直接駆動方式水密辷戸が採用された。 車両甲板面の水密性を向上させるため、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居の高さを61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉が設置され、さらに車両甲板から機関室への通風口も閉鎖され電動通風とした。このため発電機も250kVA 2台に増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置された。このような車両甲板面水密化対策をしたうえで、檜山丸にならい、車両甲板船尾舷側外板下部に放水口が多数設置され、船尾扉の設置は行われなかった。また従来のH型船の特徴であった船尾開口部梁柱も設置されなかった。 操舵室を含む甲板室前面は各層とも前方に丸みを持たせ、一層ごと後退する形とし、外舷上部も白く塗装されたため、檜山丸型を4本煙突にしたような印象となったが、船尾の入渠甲板は設置されず、後部マストは従来通りの3本足トラスで復元された。車両積載数はワム44両のままで、1956年(昭和31年)8月31日 再就航した。
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