北野の足取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「北野の足取り」の解説
初公判後、検察側は証拠として物証33点、書証355点を申請したが、被告人・弁護人がほとんどの採用に同意しなかったため、多数の証人申請を行った。被告人Mは、両事件で「殺害実行犯は北野」と主張していたが、富山事件・長野事件それぞれの被害者の死体を司法解剖した解剖医は、ともに「紐で首を絞められた際に被害者が抵抗した痕跡がない。かなり強い力で首を絞められているが、女性にも不可能ではない」と証言した。 第一審の段階で、両事件の現場検証は、1981年10月(長野事件)以降、併せて12回にわたって行われた。富山事件の発生当時、遺棄現場の道路脇には雪の壁(約1 m)があったとされていたため、「女1人で死体を捨てられるか?」と疑問視する声があったが、発見時の実況見分(1980年3月6日)当時の写真により、実際には遺棄現場の真上の雪の壁は50 cmないし70 cm(凹んだところを選べば、女性1人でも死体を遺棄できる高さ)だったことが判明した。この「女1人でも死体遺棄は可能」という実況見分調書は、起訴前には既に作成されていたが、捜査機関側は「女1人でできるはずがない」という予断のもと、「実行犯は北野」という筋書きを組み立てていたため、この調書が証拠申請されたのは、公判の途中で検察側が「実行犯はM」と主張を翻した時だった。また、捜査段階におけるMの「北野がフェアレディZを、自分がバンを運転して(遺棄現場の)町道に入った」という証言も、1982年2月26日に実施された現場検証の結果、車2台を連ねて狭い雪道に800 m入り、Uターンして国道に引き返すという、不自然なものである点が判明した。なお、現場検証の際、富山地裁がムービーカメラによる取材を禁止したことを契機に、新聞協会編集委員会は「法廷のカメラ取材に関する小委員会」を発足させ、1983年3月には「法廷内カメラ取材に関する自主基準」をまとめた上で、それを「法廷内カメラ取材に関する要望書」として最高裁へ提出し、それまで認められていなかった法廷内の撮影が、開廷前2分以内に限って認められるようになった。 1984年(昭和59年)3月5日には、修那羅峠など3か所の現場検証が実施された。この現場検証は、Mの「Bを殺害した当時、北野は夜の山道を歩いて来て、自身と合流した」という供述内容があり得るか否かを調べるためのものだったが、当時、Mが「北野が歩いてきた」と説明する道は氷点下にまで冷え込み、道端の林には雪が残っている状態で、同日深夜に実際に現場を歩いた大山は、「重い内臓疾患を患っていた北野が、カーディガンに革靴という軽装でこのような寒い山道を歩き続けることは不可能だろう」と考え、Mの供述に疑念を持った。 また、長野・岐阜や、上市簡易裁判所(証人は北野の元妻)、東京地方裁判所での出張尋問も実施され、出張尋問の回数は30回以上を数えた。長野での出張尋問の際には、北野が長野事件の発生時に投宿していたホテル「日興」のフロント係・警備員とも、事件当日(3月5日深夜 - 6日未明)に北野が外出する姿を見ていないことが判明した。 1985年(昭和60年)1月8日の第118回公判では、1980年3月31日に行われた北野への取り調べの録音テープ(取調官:遠藤定彦)が法廷で再生された。その概要は、北野が遠藤からの尋問に対し、「自分はMと付き合って2年半、彼女の言いなりになっていた。高崎駅近くの喫茶店で警察官を見た時は、『Mは自分のためにそういうことをしたのか』と思ったが、今でもまだ彼女を恨みきれない。両事件の被害者のことは知らなかった」というもので、弁護団はこの録音テープを「法廷における(北野の)供述と一致しており、無実を証明する貴重な証拠だ」と位置づけていた。
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