長野事件におけるMの主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「長野事件におけるMの主張」の解説
Mは長野事件について、捜査の最終段階から第一審判決まで一貫して、「誘拐したBを睡眠薬で眠らせた後、県道更埴明科線上で、ホテル『日興』を抜け出した北野と合流し(「合流地点」のおおよその位置)、北野がBを絞殺した。その後、2人で死体を投棄した」と供述したが、ホテル「日興」から「合流地点」を経由し、死体遺棄現場まで道路で移動した場合の距離は、最短距離で約86 km(自動車による片道所要時間は最短でも約1時間40分)で、うち「日興」 - 「合流地点」(矢越隧道より明科寄りの名九鬼部落入口)間の距離は約64 km(所要時間:約1時間10分)である。 富山地裁 (1988) はこの点を踏まえ、「仮に北野が『日興』を抜け出してMと落ち合い、殺害・死体遺棄を実行して帰宿した場合、約3時間30分以上は必要とすることになる」と指摘した。その上で、Mが「北野と合流した時刻は6日1時以降(2時より前)で間違いない」と一貫して供述していることを踏まえ、「0時55分まで『日興』でテレビを視聴していた北野が、Mが供述する時間帯(1時台)に合流地点まで到着することは極めて困難で、『日興』を出た後どこかで車を調達するか、タクシーなどに乗車しなければならない。それに要する時間も考慮すれば、Mの主張するように2時ごろまでに『合流地点』に到着することは相当に非現実的だ」と指摘した。その交通手段について、Mは捜査時点で「北野は自分との謀議で、タクシーや通りすがりのトラックなどを利用し、木戸交差点(聖高原入口)まで至り、その後は徒歩で(約7 km離れた)合流地点まで行くことになったが、実際にどのような手段で来たかは確認していない」と供述していたが、富山地裁 (1988) は「Mの供述内容は、厳寒の深夜山中を走る県道で合流しようとするにしてはあまりにも杜撰な計画で、当時の季節的・時間的状況から、徒歩という手段はあまりにも現実性が希薄だ(#北野の足取りも参照)。また、そのような計画がそのまま実行された場合、北野が『日興』から合流予定地点まで赴くには優に2時間以上かかるが、その北野が1時近くまで『日興』でテレビを見ていたのも不自然だ。Mは訴因変更後にその供述を撤回し、『車にテレビを積んでアリバイ工作をした』などの新たな主張を展開したが、そのようなことを公判の途中まで一切秘匿していた合理的な理由は何ら示されておらず、より一層不自然である」と指摘し、Mの供述の信用性を否定。 また、Mの弁護人は「Bを殺害した腰紐の結び方は縦結びで、北野が(逮捕後に留置されていた)長野中央警察署で風呂敷を結んだ際の方法とほとんど一致している(Mは風呂敷を細結びにしていた)。よって、北野が殺害実行犯と認められる」と主張したが、富山地裁 (1988) は「北野による殺害実行を疑わせる証拠にしては余りに証明力に乏しい」として、その主張を退けた上で、「Mによる『北野が殺害・死体遺棄の実行に関与していた』という主張は、M自身の供述(随所に不合理・不自然な点を内包しており全く信用できない)を拠所とするほかなく、彼女が単独で一連の犯行を実行したことに疑いはない」として、富山事件と同じく、誘拐・殺害・死体遺棄・身代金要求をすべてMの単独犯と認定した。
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