長野・前橋・東京時代(1875年-1883年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:31 UTC 版)
「小山健三」の記事における「長野・前橋・東京時代(1875年-1883年)」の解説
1875年(明治8年)6月より長野県師範学校予科の訓導として赴任し、同年照子と結婚。しかしすぐに教職を辞し、妻を長野に残したまま、新潟に旅立つ。東京時代に化学を学んだドクトル・パアムを頼りに新潟から海外に学問の修業に出ようと考えたためであったが、既にパアムは東京に戻っており会うことは出来なかった。この時ドクトル・パアムに出会って洋行(海外留学)を実現していたら、全く違う人生になっていた可能性が高い。その後前橋で5年間教鞭をとることになる。結婚4年目の1878年(明治11年)長男・敏雄を授かるが、翌年3月に亡くなってしまう。その悲しみも冷めやらぬ@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1881年(明治13年)[要検証 – ノート]1月父・宇三郎が49歳にして亡くなる。同年7月に小山は文部省の官吏となり、学務局にて中学校の教科書検定係となる。1882年、長女みねが生まれる。
※この「長野・前橋・東京時代(1875年-1883年)」の解説は、「小山健三」の解説の一部です。
「長野・前橋・東京時代(1875年-1883年)」を含む「小山健三」の記事については、「小山健三」の概要を参照ください。
- 長野・前橋・東京時代のページへのリンク