北廃寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 10:23 UTC 版)
北廃寺(尼寺北廃寺)の寺域は南北約110メートル・東西約80-85メートル(約1町四方)で、築地塀をもって区画する。主要伽藍として、金堂が北、塔が南、中門が東に配される東向きの法隆寺式伽藍配置である。南北に長い寺域かつ東向きの伽藍配置となったのは地形的制約によるとされる(または東に太子道が通ったためか)。遺構の詳細は次の通り。 金堂 本尊を祀る建物。基壇は削平されているが、周囲に巡らされた雨落溝から東西約14.7メートル・南北約16.8メートルを測ると推定される。基壇上建物は基壇の規模から桁行4間・梁行3間程度と推測される。 塔 釈迦の遺骨(舎利)を納めた塔。基壇は一辺約13.5メートル・高さ約1.4メートルを測る。基壇外装は削平のため不明。基壇上建物の柱間は2.36メートル(8尺)等間。礎石のうち、塔心礎1個・四天柱礎石4個・側柱礎石8個の計13個が遺存する。 塔心礎は地中に据えられた地下式心礎であるが、引き込む際に破断している。約3.8メートル四方を測る巨石が使用され、塔心礎としては日本最大級の規模になる。中央には心柱の柱座が彫り込まれ、その四方には添柱孔4本が彫り込まれる。添柱孔を有する心礎は尼寺北廃寺のほか斑鳩寺(法隆寺若草伽藍)・橘寺・西琳寺・野中寺でのみ知られる非常に珍しい例であり、渡来系氏族の持つ建築技術とする説がある。この塔心礎からは舎利荘厳具として、耳環・水晶玉・ガラス玉などが検出されている。 なお、香塔寺墓地にある僧聖阿(1840年死去)の墓では、塔石製露盤(推定)が台座に転用されるほか、塔側柱礎石(推定)が墓石に転用されている。 中門 伽藍東側において東面し、左右には回廊が取り付く。大部分が削平されているが、版築・焼瓦の範囲から基壇は幅約9.5メートルと推定される。 回廊 中門左右から出て金堂・塔を取り囲む。東西約44.3メートル・南北約71.4メートルを測る。基壇上建物は単廊で、桁行・梁行とも約3.5メートルを測る。 そのほか、築地塀東辺中央付近では東門(東大門)が検出されている。講堂は未検出のため明らかでなく、回廊北辺の北側に南面した可能性が指摘される。また回廊北辺では北門の存在が推測される。 寺域からの出土品としては多量の瓦がある。出土瓦の様相によれば、飛鳥時代後半(白鳳期)の7世紀後半頃に塔が創建され、次いで8世紀初頭頃までに金堂・講堂・回廊が相次いで造営されたと推定される。その後は平安時代初頭の9世紀-10世紀に焼失したが、中世期後半までの瓦が認められるほか、18世紀前半頃の陶磁器が大量に出土していることからその頃に最終的に廃絶したと推測される。『香塔寺略縁起』によれば、松永久秀が信貴山城にあった時(1573-1577年)に香塔寺一宇以外の諸寺院が破却されたとされ、その際にほとんどの堂宇が焼失したと見られる。ただし、僧聖阿(1840年死去)の墓に塔の推定部材が転用されることから、18世紀前半頃までは塔基壇上に堂宇が存在した可能性がある。 塔礎石 中門 回廊北西隅 東門(東大門) 塔基壇剥ぎ取り土層尼寺廃寺跡学習館展示。 出土品塔跡心礎出土品は奈良県指定文化財。香芝市二上山博物館展示。
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