北府軍を領す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
太元2年(377年)10月、当時、前秦が急速に勢力を拡大しており、北の国境は幾度も侵寇を受けていた。朝廷は北方を鎮める為に文武の良将を求めると、謝安は謝玄こそ適任であるとして推挙した。中書郎郗超はかねてより謝玄とは折り合いが悪かったが、これを聞くと嘆息して「安(謝安)は周囲の意に反して親族を挙げたが、これは明である。玄(謝玄)は必ずやこの挙に違わぬであろう。まさしく才である」と述べた。当時の人はこれに納得していなかったが、郗超は「我はかつて玄と共に桓公(桓温)の府にいたが、彼が人材を用いるのを見るに、小事ですらその任に適ったものであった。故にこれが分かるのだ」と言った。 ここにおいて中央に呼び戻されると、建武将軍・兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事に任じられた。謝玄が着任すると驍勇の士を集め、彭城出身の劉牢之ら数人の逸材を得た。その劉牢之を参軍に任じ、常に精鋭を率いさせて軍の前鋒とすると、謝玄軍は向かうところ敵無しであり、常に勝利を治めたという。時の人はその軍を『北府兵』と号して賞賛し、敵からは恐れ憚られた。
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