北一色町 (豊田市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/12 14:06 UTC 版)
北一色町
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北一色町の位置
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北緯35度12分17.3秒 東経137度11分49.4秒 / 北緯35.204806度 東経137.197056度 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
市町村 | ![]() |
地区 | 藤岡地区 |
町名制定 | 2005年(平成17年)4月1日 |
面積 | |
• 合計 | 2.123 km2 |
人口 | |
• 合計 | 797人 |
• 密度 | 380人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
470-0453[2]
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市外局番 | 0565(豊田MA)[3] |
ナンバープレート | 豊田 |
概要
豊田市の北西部に位置し、藤岡地区(旧西加茂郡藤岡町の町域にほぼ相当する)に属する。東西に長い町域を持ち、それぞれ町内の水源から発した池田川・北一色川が町域最東部で付近で合流し、藤岡飯野町へと南進していく。人家は主に町域東部、南北を縦貫する愛知県道350号北一色東広瀬線を挟み込むようにして、広く点在している。西部に行くほど山深くなり、林道北一色線が一本通るのみで町域も狭まっていくが、最西部は瀬戸市と接している。ため池が多く、現在でもヒヤケ池、寺沢池、山ノ神池、山ノ神中池などが残っている。
かつては陶土材料である石粉が製造され、瀬戸まで馬で運ばれたというが、昭和期に入り衰退する[4]。尾張知多方面の伝統芸能である尾張万歳がこの地にも伝わる[4]。
小字
- 池田(いけだ)
- 石畑(いしばた)
- 梅ノ木(うめのき)
- 大洞(おおぼら)
- 方平(かたひら)
- 加美屋(かみや)
- 川原(かわはら)
- 木ノ本(きのもと)
- 下ノ田(しものた)
- 茶山(ちゃやま)
- 西ノ平(にしのたいら)
- 西ノ洞(にしのほら)
- 藤ノ木(ふじのき)
- 洞口(ほらぐち)
- 松葉(まつば)
- 向イ平(むかいだいら)
- 向谷下(むこうやげ)
- 茂リ曽(もりそ)
- 柳沢(やなぎさわ)
- 山畑(やまばた)
- 山洞(やまぼら)
- 吉原(よしわら)
歴史
沿革
- 江戸期 - 寛永期の『三河国村々高附』においては「加茂郡一色村」、天保期の郷帳においても「加茂郡一色村」という表記が見受けられる[5]。
- 1635年(寛永12年)当時 - 下総栗原藩成瀬氏領であった[6]。
- 1697年(元禄10年) - 旗本沼間氏の知行地となる(1701年(元禄14年)まで)[6]。
- 1711年(正徳元年) - 三河吉田藩領となる[6]。
- 1832年(天保3年)- 幕府領となる[6]。
- 1839年(天保10年)- 再び三河吉田藩領となる[6]。
- 1871年(明治4年) - 大区小区制施行により、第4大区第2小区に所属する[5]。
- 1872年(明治5年) - 村名が一色村から北一色村に改称される[6]。なお対応する同名の一色村は現みよし市にあり、こちらも同年に西一色村と改称している。
- 1878年(明治11年) - 郡区町村編制法施行により、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割される。これに伴い、北一色村の所属が加茂郡から西加茂郡に変更される[4]。
- 1884年(明治17年)7月 - 戸長役場設置に伴い、北一色村、飯野村(いいのむら)、石飛村(いしとびむら)、田茂平村(たもだいらむら)、西中山村(にしなかやまむら)、迫村(はさまむら)、深見村(ふかみむら)の7村が同組に組み込まれる[8]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 市制・町村制施行に伴い、北一色村、飯野村、石飛村、田茂平村、西中山村、迫村、深見村の7村が合併して西加茂郡藤河村が誕生し[9]、北一色村は藤河村大字北一色に継承される[4]。
- 1906年(明治39年)4月1日 - 藤河村、高岡村、富貴下村の内3大字が合併して藤岡村が誕生し[10]、藤河村大字北一色は藤岡村大字北一色に継承される[4]。
- 1978年(昭和53年)4月1日 - 藤岡村の町制施行に伴い[10]、住所表示が藤岡町大字北一色に変更される[4]。
- 2005年(平成17年)4月1日 - 藤岡町の豊田市への編入に伴い、住所表示が豊田市北一色町に変更される。
世帯数と人口
2019年(令和元年)7月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
北一色町 | 253世帯 | 797人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移
2005年(平成17年) | 631人 | [11] | |
2010年(平成22年) | 751人 | [12] | |
2015年(平成27年) | 740人 | [13] |
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
字・番地等 | 小学校 | 中学校 |
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梅ノ木960番地6〜7・36〜37・39〜72 | 豊田市立石畳小学校 | 豊田市立藤岡中学校 |
その他 | 豊田市立飯野小学校 |
施設
公共施設
企業・工場
- アポロホームガス中部株式会社ホームガスセンター
- 大日養鯉場株式会社トヨタ店
- 株式会社フジオカ倉庫運輸
寺社
- 藤岡神社
- 1393年(明徳4年)の創建といわれ、小猿投とも俗称されて総鎮守としての崇拝を受けた。1625年(寛永2年)の棟札が伝わっている。元は八王子神社であったが、1872年(明治5年)に八柱神社に改称。1885年(明治18年)には、村の戸数の倍以上にあたる119戸の氏子があった。1923年(大正12年)、藤岡神社に改称する[7]。
- 春埜山神社
- 曹洞宗永平寺末金剛寺(こんごうじ)
- 山号は菩提山。1521年(大永元年)の開創とされる。1734年(享保19年)には雲興寺の霊源陽沢により開山[6]。天保期から明治初期まで、同寺に寺子屋が開かれていた[7]。
文化財
指定文化財
天然記念物
その他の文化財
古窯
- 山洞(やまぼら)窯 - 時期不詳[16]
散布地
- 大洞(おおぼら)遺跡 - 縄文・奈良・中世・近世[16]
- 加美屋(かみや)遺跡 - 縄文[6]
- 山洞遺跡 - 平安・中世・近世[16]
- 西ノ平(にしのたいら)遺跡 - 縄文・奈良・中世・近世[16]
- 木ノ本(きのもと)遺跡 - 中世・近世[16]
- 川原(かわはら)遺跡 - 縄文・中世・近世[16]
その他
日本郵便
脚注
- ^ a b c “豊田市の人口 2019年7月1日現在人口 詳細データ - 町別面積・人口・世帯数” (日本語). 豊田市 (2019年7月11日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ a b “北一色町の郵便番号”. 日本郵便. 2019年7月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:468ページ
- ^ a b 『日本歴史地名体系』23:1165ページ
- ^ a b c d e f g h i 『日本歴史地名体系』23:846ページ
- ^ a b c d 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:140ページ
- ^ 『豊田加茂の地名』:8ページ
- ^ 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:1170ページ
- ^ a b 『豊田加茂7市町村の合併の記録』:20ページ
- ^ “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等” (日本語). 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等” (日本語). 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等” (日本語). 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “2019年度豊田市立小中学校区一覧表 (PDF)”. 豊田市 (2019年6月26日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ 指定・登録文化財一覧[リンク切れ](豊田市ウェブサイト、2012年1月23日閲覧)
- ^ a b c d e f g h 埋蔵文化財一覧(豊田市ウェブサイト、2012年1月23日閲覧)
- ^ “郵便番号簿 2018年度版 (PDF)” (日本語). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(日本語) 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。
- 有限会社平凡社地方資料センター 編(日本語) 『日本歴史地名体系第23巻 愛知県の地名』平凡社、1981年。 ISBN 4-582-49023-9。
- 『豊田加茂7市町村の合併の記録』、豊田市、2005年。
- 深津重貞『豊田加茂の地名』、1991年。
関連項目
- 北一色町_(豊田市)のページへのリンク