創設と初期の活動
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テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して聖地の守護を唱えたフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤン(英語版)のもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国のボードゥアン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。 ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。 テンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。 テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177年のモンジザールの戦いでサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世(獅子心王)とも共闘した。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。 しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちやほかの修道会からの批判の声が聞かれるようになった。それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は、商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。
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