創設とオリンピック初出場
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「ジョージア国内オリンピック委員会」の記事における「創設とオリンピック初出場」の解説
会長期間ノナ・ガプリンダシヴィリ 1989年—1996年 ヤンスク・バグラティオニ 1996年—2004年 バドリ・パタルカツィシュヴィリ 2004年—2007年 ギオルギ・トパゼ 2007年—2008年 ギオルギ・ナツヴリシヴィリ 2008年—2012年 レリ・ハベロフ 2012年—現在 ソビエト連邦では1980年代後半から民主化が進められたが、この流れはスポーツの世界にも影響を与えた。1988年ソウルオリンピックの同年、ラトビア、リトアニア、エストニアはそれぞれ独立の国内オリンピック委員会を設置すると発表した。1989年10月6日、当時のグルジア・ソビエト社会主義共和国のオリンピック準備委員会はトビリシのチェス会館で会合を行い、グルジア国内オリンピック委員会の発足を発表した。この会議に出席した377名の代表者は、全会一致で国内オリンピック委員会の組織体制および憲章作成の決議を支持した。そしてグルジア国内オリンピック委員会は、自身の目的について「オリンピック憲章に基づき、国内でのオリンピック・ムーブメントとスポーツの発展、振興、保護を促進すること」であると述べた。加えて国内オリンピック委員会を創設したもう一つの目的として、オリンピックその他の国際大会に、独立国として代表選手を輩出することを掲げた。初代会長には国際的な有名なチェス棋士であるノナ・ガプリンダシヴィリが選出された。副会長にはヴィクトル・サネイエフ、テンギズ・ガチェチラゼ、パアタ・ナツヴリシヴィリが、事務局長にはダヴィド・キンツラシヴィリが就任した。 ソビエト連邦オリンピック委員会がいくつかの独立したオリンピック委員会に分裂していく潮流は、ソビエト連邦のスポーツ界の一体性を脅かすものであった。ソビエト連邦構成共和国はそれぞれ独自のオリンピック委員会を設立し、やがて過半数を占めるようになった。ロシア連邦もまた、ロシアオリンピック委員会を発足させた。ロシアオリンピック委員会はモスクワのホテル「スポルト」で設立会議を行い、初代会長に飛込競技の元王者ウラジーミル・ヴァシンを据えた。ロシアオリンピック委員会の目的は、国家の団結を維持してオリンピック・ムーブメントを推進し、分裂や人材の流出を防ぐことであった。1991年のジョージア独立とソビエト連邦の崩壊を経て、ロシアオリンピック委員会は1992年バルセロナオリンピックに向け、国際オリンピック委員会への加盟が間に合っていないジョージアら旧ソビエト連邦諸国の選手を集め、統一チームを組織した。 オリンピック直前の1992年3月9日、国際オリンピック委員会はジョージア国内オリンピック委員会に対して、オリンピックのジョージア選手団のオリンピック予選参加を条件付きで認めた。そして1993年9月23日、モナコで開催された第99次IOC総会において、ジョージア国内オリンピック委員会はジョージア国内におけるオリンピック・ムーブメント推進の正式な代表組織であると承認された。また同年、ヨーロッパオリンピック委員会もジョージア国内オリンピック委員会を加盟組織として承認した。ジョージア国内オリンピック委員会は各国のオリンピック委員会と二国間の協力協定を順次締結していった。加えて国内12地域組織、ジョージアオリンピックアカデミー、ジョージアオリンピアンズ協会、オリンピック博物館について統括範囲に置いた。
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