創設とミドルパークスタッド
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「ミドルパークステークス」の記事における「創設とミドルパークスタッド」の解説
ミドルパークステークスは1866年にウィリアム・ブレンキロン(William Blenkiron、1807?-1871)が1000ポンドの資金を提供して創設した。これは民間のスポンサーのついた競走として最初期のものである。ブレンキロンの目論見は、早熟なスピード馬を生産して売ることにあり、この競走の創設によって、そうした馬の買い手を増やすことを狙っていた。こうした彼の商業主義的な生産手法から、ブレンキロンは最初期のマーケットブリーダーであると見做されている。「ミドルパーク」という名称は、ブレンキロンが所有していたミドルパーク牧場(スタッド、Middle Park Stud)に由来する。 ブレンキロンはヨークシャーの農夫だったが、ロンドンに出て事業に成功し、その財で1852年にケント州エルサムでミドルパーク牧場を開設した。そこでの生産馬の代表格は、カラクタカス(Caractacus、1862年イギリスダービー馬)、ハーミット(Hermit、1867年イギリスダービー馬)、ゲイモス(Gamos、1870年イギリスオークス馬)である。ブレンキロンは自ら生産するだけではなく、セリ市で高額で馬を買うことでも知られていた。特に高額だったのは、ダービーとオークスに勝った牝馬ブリンクボニー(Blink Bonny)、イギリス三冠馬グラディアトゥール(Gladiateur)、ダービー馬ブレアーアソール(Blair Athol)である。これらは皆、ミドルパーク牧場に繋養された。 ミドルパークステークスは、創設から1921年まで、「ミドルパークプレート」という名称だった。「プレート競走」というのは、賞金を主催者が供出して保証するタイプのレースである。1922年からは「ミドルパークステークス」になった。「ステークス競走」は、出走を希望する馬主が事前に供託した登録料の総和が賞金となるタイプのレースである。
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