創設と発展
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1950年10月24日、ソ連国防相アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥と参謀総長セルゲイ・シュテメンコ大将の命令により、1951年5月1日までに各120人の46個独立特殊任務中隊が創設された。総員数は、5,500人を僅かに超えた。しかし、軍縮が始まった1953年、35個特殊任務中隊が解散された。 1957年1月11日、シェルストネフ少将は、中隊が多方面に渡る戦闘能力を有していないと主張し、中隊編制の代わりに大隊編制(400人)規模の特殊任務部隊を創設することを提案した。1957年8月29日付地上軍総司令官令により、5個独立特殊任務大隊が編成された。当時、ジューコフ元帥はスペツナズ将校養成のために、GRUにタンボフ第2空挺学校を開校することを構想していたが、彼が失脚したため、結局この学校は創設されなかった。 1961年8月20日、ソ連共産党中央委員会は、「パルチザン支隊の組織及び装備のための要員訓練及び特殊機材の開発に関する」決定を公布した。当決定に従い、1962年2月5日、参謀本部は戦時におけるパルチザン運動の展開のために、1,700人の予備役軍人を選抜して旅団に編入し、1ヶ月以内に召集を行うことを軍管区司令官に命令した。1962年3月27日付参謀本部令により、特殊任務旅団の定数草案が立案された。1962年末までに、ベラルーシ、極東、ザカフカーズ、キエフ、レニングラード、モスクワ、オデッサ、沿バルト、沿カルパチア及びトルキスタン軍管区に、常設の特殊任務旅団が編成された。この再編の結果スペツナズは、12個独立中隊、5個独立大隊及び10個旅団となった。 1963年、ベラルーシ、沿バルト及びレニングラード軍管区領域において、スペツナズの最初の大規模演習が行われた。演習は成功と認められたが、1964年末までに、3個大隊及び6個中隊が削減された。 1968年、リャザン空挺学校に、スペツナズ将校養成のための第9生徒中隊が創設された。教育プログラムには、英語、ドイツ語、フランス語及び中国語の研究が含まれた。1970年から、部隊の戦闘訓練プログラムには語学訓練が含まれた。スペツナズは仮想敵の言語を研究したが、40時間の語学訓練では基本フレーズ以下しか教育することができず、全ての期待はソ連国内の非ロシア系民族にかけられた。 1977年8月、フルンゼ名称軍事アカデミーにおいて、偵察学部にスペツナズ将校訓練教育グループが創設された。1978年9月1日から、当グループは授業に着手した。
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