創設と草創期の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 07:29 UTC 版)
「イギリス陸軍航空隊」の記事における「創設と草創期の経緯」の解説
航空機はまず偵察や砲兵の観測に関する費用対効果の優れた方法として認知され、1911年11月、帝国国防委員会は軍用航空の問題を調査するための小委員会を設置した。明くる年の2月、小委員会は、海軍ウィング(naval wing)、陸軍ウィング(military wing)、中央飛行学校および航空機工場から成る航空部隊を創設すべきであるという結論をまとめて報告した。委員会の提言は受け入れられ、国王ジョージ5世は1912年4月13日にRFC設立の勅許状に署名した。イギリス陸軍工兵隊の航空旅団は1ヶ月後の5月13日にRFCの陸軍ウィングとなった。 RFCの当初の人員は士官133名だったが、その年の終わりには12個の有人気球と36機の飛行機を有していた。RFCは当初陸軍訓練部隊の指揮官であるデヴィッド・ヘンダーソン准将の管轄下に置かれ、陸軍と海軍それぞれ別個の部隊を配下に置いていた。陸軍ウィングはフレデリック・サイクス陸軍少佐が、海軍ウィングはチャールズ・R・サムソン海軍中佐が指揮した。しかしイギリス海軍は陸軍とは異なる優先順位を持っており、またその航空機についてもより大きな権限を保持することを望んだため、1914年に海軍ウィングを正式に分離させ、イギリス海軍航空隊(Royal Naval Air Service)と改称した。しかし中央飛行学校の共同使用は維持した。 RFCのモットーは、「Per ardua ad astra("Through adversity to the stars")」であり、これはイギリス空軍(RAF)や他の連邦諸国空軍にも受け継がれている。これはフレデリック・サイクスが下級士官たちに相談したときに提案された一つであり、下級士官の一人が読んでいたファンタジー小説「The People of the Mist」の冒頭文に由来する。 RFCの初の死亡事故は、ソールズベリー平原のストーンヘンジの近くで1912年7月5日に発生した。亡くなったのはラークヒル飛行場から飛び立ったユースタス・ロレーン大尉と観測員のR・H・V・ウィルソン曹長であった。事故の後、「飛行は今晩も通常通り続けられる」という命令が出され、これが伝統となった。 1912年8月、RFCのウィルフレッド・パーク中尉は突然のスピンから立ち直った初のパイロットとなった。それは彼がアブロ G型複葉機を操縦してまさに航続時間の世界記録を破ったときのことで、スピンに入ったのはソールズベリー平原のラークヒル飛行場の700フィート上空のことだった。4ヶ月後の1912年12月11日、パークはヘンドンからオックスフォードに向かって飛行中、操縦していたハンドレページ単葉機の墜落によって死亡した。
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