創設、1889年 - 1892年
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「セントラル・ロンドン鉄道」の記事における「創設、1889年 - 1892年」の解説
1889年11月に、セントラル・ロンドン鉄道は1890年の議会に対して法案を提出する意図があることを発表した。この法案では、クイーンズロードとベイズウォーターロードのベイズウォーターにある交差点から、シティ・オブ・ロンドンにあるキング・ウィリアム通り(英語版)まで走り、そこで当時建設中であったシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道と接続する計画であった。セントラル・ロンドン鉄道は2本のトンネルで、ベイズウォーターロード、オックスフォード通り、ニューオックスフォード通り、ハイ・ホルボーン、ホルボーン、ホルボーン高架橋、ニューゲート通り、チープサイド、そしてパウルトリーの地下を通ることになっていた。駅は、クイーンズロード、スタンホープ・テラス、マーブル・アーチ、オックスフォード・サーカス、トテナム・コート・ロード、サウサンプトン・ロウ、ホルボーン・サーカス、セントマーチンズ・ル・グランド、そしてキング・ウィリアム・ストリートに計画されていた。 シールド工法を用いて鋳鉄セグメントの覆工を施した、直径11フィート(約3.35メートル)のトンネルを建設することになっていた。駅においては、構造に応じて直径22フィート(約6.71メートル)または29フィート(約8.84メートル)となっていた。車両基地と発電所はクイーンズロード西側に1.5エーカー(約0.61ヘクタール)の面積で建設されることになっていた。各駅とも、道路とプラットホームを結ぶ水圧エレベーターが設置されることになっていた。 この提案は、セントラル・ロンドン鉄道の経路と北側および南側でそれぞれ並行しており、新線に旅客を奪われると考えられた、インナーサークルを運営するメトロポリタン鉄道とメトロポリタン・ディストリクト鉄道から強い反対を受けた。またシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)も、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の建設の際に経験したように、ルート近くで地盤沈下により建物に被害が及ぶ可能性があるとして反対した。セント・ポール大聖堂も、聖堂の基礎を掘り崩される恐れを気にして反対した。ジョゼフ・バザルジェット(英語版)は、このトンネルがロンドンの下水システムを壊してしまうとして反対した。法案は庶民院(下院)では承認されたが、貴族院(上院)では否決され、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道の開通後にその運行を評価できるまでは、いかなる結論も延期されるべきだとした。 1890年11月にシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道は開業し、セントラル・ロンドン鉄道は1891年の会期に新しい法案を提出すると発表した。経路は西側を延長され、ノッティングヒルハイストリート(現在のノッティングヒルゲート)、ホランドパークアベニューの下を通って、シェパーズ・ブッシュ・グリーンの東側の角で終わるようになり、車両基地と発電所はその北側、ウッド・レーンの東側に移された。この西側への延長は、1890年初めに同じ経路で道路のすぐ下を走る地下鉄として提案されたロンドン・セントラル地下鉄の、実現しなかった案に促されたものであった。東側の終点はコーンヒルに変更され、提案されていたサウサンプトン・ロウ駅はブルームズベリー駅に変更された。中間駅がランズダウン・ロード、ノッティング・ヒル・ゲート、デイヴィーズ・ストリート(ここから北へ延伸してオックスフォード・ストリートに到達する計画であった)、チャンスリー・レーンに追加された。初期の計画にあった、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道との接続は取り消され、セントラル・ロンドン鉄道のトンネル直径は11フィート6インチ(約3.51メートル)に拡大された。今度の法案は両院を通過し、1891年セントラル・ロンドン鉄道法として1891年8月5日に女王裁可を得た。1891年11月にセントラル・ロンドン鉄道は新たな法案を公開した。路線の東側は北東側へ曲げられ、グレート・イースタン鉄道(英語版)のターミナル駅であるリバプール・ストリート駅へ達するようになり、コーンヒル駅は撤回された。また王立取引所(ロイヤル・エクスチェンジ)に新しい駅が提案された。この法案は1892年セントラル・ロンドン鉄道法として1892年6月28日に女王裁可を得た。 セントラル・ロンドン鉄道の建設資金は、アーネスト・カッセル、ヘンリー・オッペンハイム、ダリウス・ミルズ(英語版)、ロスチャイルド家の人々などからなる投資家のシンジケートを通じて調達された。1894年3月22日にシンジケートは鉄道建設を請け負う契約者としてエレクトリック・トラクション・カンパニー・リミテッド (ETCL) を設立し、この会社は2,544,000ポンド(こんにちのおよそ2億5300万ポンド)に加えて4パーセント利率の社債70万ポンドで建設することに合意した。シンジケートがセントラル・ロンドン鉄道の株式285,000株を1株当たり10ポンドで1895年6月に売り出した際、同様の鉄道提案が何件も失敗していたことから投資に消極的になっており、イギリスで消化されたのはわずか14パーセントだけであった。一部はヨーロッパおよびアメリカ合衆国で販売されたが、売れ残った株はシンジケートメンバーやETCLが購入した。
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