創設から1945年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:17 UTC 版)
「ワシントン・コマンダース」の記事における「創設から1945年まで」の解説
マサチューセッツ州ボストンで1932年7月9日にジョージ・プレストン・マーシャルらによって創設された。チーム名はボストン・ブレーブス。10月2日にブルックリン・ドジャースとの初戦は0-14で敗れたが翌週のニューヨーク・ジャイアンツ戦で14-6と初勝利をあげた。1年目は46,000ドルの赤字を出したため、マーシャル以外のオーナー陣はチーム経営をあきらめてマーシャルが単独オーナーとなった。 翌1933年、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークに移った際に、ボストン・レッドスキンズと名称を変更した(この名称に対してスー族から抗議があったがマーシャルオーナーは愛称を変更しなかった。)。フェンウェイパークに移ったことは失敗で観客も少なかった。 1936年、初のNFLドラフトで全体2位指名権を獲得したチームはアラバマ大学のブロッキングバック、ライリー・スミスを獲得した。この年ドラフト全体1位で指名されたハイズマン賞受賞者のジェイ・バーワンガーはプロ入りしなかったためスミスがNFLドラフトで最初に指名されたNFL選手となった。この年のドラフトでチームはエンドのウェイン・ミルナーも獲得、彼はオフェンスで重要な役割を果たす選手となった。1936年にマーシャルオーナーはヘッドコーチにレイ・フラハティを起用した。フラハティは地区優勝4回、NFLチャンピオンに2度輝いた。 1936年、チームは4勝5敗から3連勝して7勝5敗と初の勝ち越し及び地区優勝を果たした。しかし地元フェンウェイパークで行われたレギュラーシーズン最終戦のピッツバーグ・スティーラーズ戦は4,813人しか観衆が入らなかったためマーシャルオーナーはホームフィールドアドバンテージを放棄し、NFLチャンピオンゲームはニューヨークのポロ・グラウンズで行われたが、6-21でグリーンベイ・パッカーズに敗れた。 1937年、チームはワシントンD.C.に移転、ワシントン・レッドスキンズとなった。当初チームはワシントン・セネターズの本拠地であったグリフィス・スタジアムを本拠地とした。移転した最初の年、その後プロフットボール殿堂入りを果たすテキサス・クリスチャン大学出身の新人QBサミー・ボウをドラフトで獲得、彼の活躍もありチームは28-21でシカゴ・ベアーズを破りNFLチャンピオンとなった。サミー・ボウは、コーナーバックやパンターとしてもプレイした。1940年のNFLチャンピオンシップゲームはシカゴ・ベアーズとの再戦となったがチームは0-73とNFL史上一番のワンサイドゲームで敗れた。1942年、再びシカゴ・ベアーズを14-6で破り2度目のNFLチャンピオンになった。1943年サミー・ボーがその年のパス記録、パント記録、インターセプト記録のトップとなる活躍を見せチームはNFLチャンピオンシップゲームに進出したがシカゴ・ベアーズとの対戦では21-41で敗れ2年連続のNFLチャンピオンは逃した。 1944年にパリオリンピックのラグビーで金メダリストとなったダドリー・デグルートがヘッドコーチとなった。1945年、サミー・ボーが70.3%のパスを成功させ、チームは8勝2敗の成績を残した。NFLチャンピオンシップゲームまで進出したがクリーブランド・ラムズに14-15と1点差で敗れた。この試合でサミー・ボーが自陣5ヤードから下がって投げたパスがゴールポストを直撃しセイフティとなった。この判定に激怒したマーシャルオーナーはルール改正を働きかけ、翌年からこうしたケースはパス不成功とすることになった。
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