判決そして死刑執行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:08 UTC 版)
「テッド・バンディ」の記事における「判決そして死刑執行」の解説
1979年6月25日から7月31日にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにもかかわらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している(一子をもうけた後、離婚)。また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターをもらっている。 判決は死刑であった。裁判官は判決の際、以下のことを言った。 (フロリダでの死刑執行は電気椅子で行われることから)貴下が電流によって死に至るまで座っているよう、貴下が死ぬまで電流が貴下の体内を通るよう、ここに命じるものである。体に気をつけなさい。(「Take care of yourself」。別れの時の慣用句で、日本語で表すなら「それではお元気で」、「お体に気を付けて」の意。「自制した人生を」とも解釈できる)。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所にとって悲劇とも言える。貴下は聡明な青年だ。貴下は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴下が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴下に何ら敵意も持っていない。それは理解してほしい。しかしあなたは道を間違えた。体に気をつけなさい。 ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に科された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した罪にしか興味がないと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決してないと考えたという。 それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ってもいる。しかし、それは聞き入れられず、彼はとうとう電気椅子に座ることになった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感(せきりょうかん 寂しい様子)にあふれた顔を見せた。 1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。2000ボルト以上の電圧を2分間にわたり加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。
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