判明している埋葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
先に述べたようにやぐらの中には雲形位牌が浮彫にされているものもあり、当初は上を覆う漆喰の上に、墨か、あるいは漆を塗ってその上に金泥かで戒名が書かれていたと思われる。しかし数百年の間の風化ではげ落ち、読めるものはほとんどない。五輪塔も初期には鎌倉石であるために風化が激しい。そうした中で、鎌倉時代後期から鎌倉でも見られるようになった安山岩製の仏像、五輪塔などに僅かに名前の知れたものがある。 神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に「大唐高麗舞師 本朝神楽博士 従五位上行 左近将監 中原朝臣光氏(行年七十三)」とある。この中原光氏は『吾妻鏡』などにも登場する楽人で、鶴岡八幡宮の木造弁才天坐像(裸形着装像、重要文化財)の寄進者である。 覚園寺の裏山にあたる百八やぐらに「掘出地蔵やぐら」とよばれるものがあり、その中の二基の五輪塔の地輪に「正祐□□」と読めるものと「祐阿弥陀仏(梵字)逆修四十九 応永三十三年(1426年)八月十五日」とあるものが残っている。「祐阿弥陀仏」は室町時代の初期、応永年間(1394-1427年)の覚園寺大修造に際して、日光・月光菩薩像(本尊薬師如来の両脇侍)、十二神将像などの造仏を行った仏師・朝祐である。もう一つの「正祐」はその父親で、足利尊氏が行った文和年間(1352-1356年)の修造のときの仏師と推定される。このことからも、一つのやぐらはその家、その一族の墓として用いられたと考えられる。 理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらで常滑焼の大甕が出土し、中には屈葬で入定している火葬していない遺体があった。その大甕の中に桃型の黒漆の入れ物があり、その中から水晶の丸玉の中をくり抜いて舎利を入れたもの(能作性の舎利)が発見された。そのことからその遺体は1327年4月17日に理知光寺で亡くなった伊豆の妙浄上人宥祥と推定されている。 やぐらは「鎌倉武士の墓」と云われるが、上記のように決して武士だけの墓ではなく、芸能人、芸術家、僧なども含めた上流階級の墓とされる。
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