判決とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:25 UTC 版)
12月18日に言い渡された判決は、次の通りである。 渡辺崋山 - 幕政批判のかどで、田原で蟄居。 高野長英 - 永牢(終身刑)。 山口屋金次郎 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。 山崎秀三郎 - 江戸払い。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。 斉藤次郎兵衛 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。 順道 - 未決。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。 順宣 - 僧籍の身で投機にはしったかどで押込。 阿部友進 - 獄開始後、渡航グループに接触した容疑で奉行所に召喚された、崋山の友人であり医者である同人も、無人島開発計画を吹聴し、山口屋に鉄砲を渡す相談に乗ったかどで100日押込。 本岐道平 - 無断で鉄砲を作成したかどで100日押込。 大塚同庵 - 山口屋金次郎に鉄砲を渡したかどで100日押込。 鈴木孫介 - 蛮社の獄に直接関係なかったが、崋山に貸した大塩平八郎の書簡を焼却したことが不埒として押込。 無人島渡海について、拷問で獄死した町人たちと同罪と見られる罪状がありながら、幕臣・陪臣はそれぞれ別件で「押込」という軽い処罰で済まされているが、その理由として田中弘之は、蛮社の獄は「幕府が緩み始めた鎖国の排外的閉鎖性の引き締めを図った事件」であって、罪状の有無よりも西洋・西洋人への警戒心の風化を戒める一罰百戒としてみせしめ的厳罰という要素が強かったため幕臣は除かれ町人たちだけが冤罪の犠牲にされた。鳥居耀蔵が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるとの説を提示している。 その後崋山は判決翌年の1月に田原に護送され、当地で暮らし始めたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)10月11日に自刃した。享年49。 長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄した。蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡したが、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。享年47。 本岐道平は獄中生活で体を壊したためか、出獄後まもなく死亡。順宣は無量寿寺に戻り、慶応3年(1867年)2月15日、77歳で死亡。 花井虎一は誣告の罪で重追放にされるべきところ、犯罪の摘発に寄与した功績が認められて無構え。その後花井は、翌年の4月6日に昌平黌勤番に抜擢されている。昌平黌は林家の所管であり、この異例の昇進には水野忠邦の内意も働いていた。その後花井は小笠原貢蔵の養女をめとり、長崎奉行付与力に昇進した。義父となった小笠原とともに長崎に赴任し、鳥居耀蔵による高島秋帆の陥れにも一役買ったという(ただしこれも鳥居によるものではなく、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中の水野によって行われたものとする説もある)。
※この「判決とその後」の解説は、「蛮社の獄」の解説の一部です。
「判決とその後」を含む「蛮社の獄」の記事については、「蛮社の獄」の概要を参照ください。
- 判決とその後のページへのリンク