判断の理論(Theory of judgement)
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「フランツ・ブレンターノ」の記事における「判断の理論(Theory of judgement)」の解説
「 判断力批判 」も参照 1874年から1895年にかけて、ブレンターノはウィーン大学においてしばしば論理学についての講義を行った。ブレンターノによれば、論理学は「正当な判断についての学説」であり、論理学は正しい判断に導いていくための手段を教えるという目的によって規定されているものであった。現代において、ブレンターノの判断の理論は、マイヤー・ヒレブラント女史の編集の手による『正当な判断論』(Die Lehre vom richtigen Urteil)を参照することによって知ることができる。 ブレンターノによれば、心的現象は3つに分類することができる。第一は表象作用であり、第二は判断作用、そして第三に愛・憎であり、論理学の対象となるのはこのうち前者の表象(独: Vorstellung, 英: representation, presentation)と判断(独: Urteil, 英: judgement)である。デカルト以前においては判断と表象は一体であると考えられていたが、ブレンターノはこれは誤りとした。たとえば、「緑色の木」という表象結合と「木は緑である」という判断作用は全く別物であり、表象の結合によってはいかなる判断も生じない。ブレンターノは、現在支配的な(フレーゲの)見解とは異なる判断理論を持っていたが、彼の判断理論は、このように表象作用と判断作用の相違を確立しようとした。 前期(存在判断還元論) 彼が差し当たってまず問題としたのは、判断理論の出発点を形成している存在判断についてであり、彼は「あらゆる判断は、それが定言的形式・仮言的形式・選言的形式のいずれにおいて表されるにしても、意味を少しも変えることなく無主語命題の形式、あるいは私の言い表しによれば、存在命題の形式で表わされうる」と、判断形式の存在命題形式への還元を主張した。なお、ここで「無主語命題」=「存在命題」といっているのは、非人称の es をとる命題のこと(es gibt, es ist)であり、さらに「無主語命題(subjektloser Satz)」という表現は、有名な言語学者フランツ・ミクロシッチから由来するものであった。ブレンターノは判断の考察は言語表現とは独立には不可能であるという見地に立ち、あらゆる判断を無主語命題・存在命題の形式で表そうとしたのである。 ブレンターノが主張したことは、例えば、アリストテレス以来の判断の基本形式である、判断の定言的形式(categorical judgement) S は P である。(S is P.) は、 SP がある。(SP exist.) に言い換えることができ、両命題は「論理学的には」等しい、ということであった。これは、「ある人が病気だ」という命題は、「病気の人がいる」というのと同義であり、「すべての人は死ぬものだ」という命題は、「死なない人は存在しない」というのと同義であるということである。 ブレンターノの判断理論の中心にあるのは、表象(presentation)作用と判断作用は異なるものであるが、判断は表象無しに行うことはできない。つまり、判断に先んじて表象(presentation)がなくてはならないという考えである。ブレンターノは、例えば「火星が存在する」というときの判断はただ一つの表象を持つ、というように単一の表象から生じる判断もあると主張した。ブレンターノ自身の記法を用いれば、判断は常に次の形式を持つ。つまり’+ A'(A が存在) または '- A'(Aは存在しない)。 ブレンターノは、判断作用は主観的な表象結合ではなく、存在自体にかかわる承認あるいは拒否の作用であるとし、しかも存在概念は直ちに真なるもの概念に通じると考え(前期的見解)、次のように主張した。 「 存在と非存在の概念は肯定的判断(affirmative judgement)と否定的判断(denial judgment)との真理の概念の相関体である。判断には判断されたものが属する。すなわち肯定的判断には肯定的に判断されたものが、否定的判断には否定的に判断されたものが属する。それと同じように肯定的判断の正当性には肯定的に判断されたものの存在が属し、否定的判断の正当性には否定的に判断されたものの非存在が属する。そして私が、肯定的判断は真である、あるいはその対象は存在していると言うにしても、そしてまた私が、否定的判断は真である、あるいはその対象は非存在であると言うにしても、両者の場合において私は同一のことを言っているのである。同じようにそれゆえ、私がおのおのの場合において肯定的あるいは否定的判断は真であるか、それともおのおのの対象は存在しているか非存在であるかであると言う場合、本質的に同一の論理的原理が存するのである。これに従えば、例えば『ある人は学識がある』という判断の真理の主張は、その対象、すなわち『学識ある人』の存在の主張の相関体であり、そして『石には生命がない』という判断の真理の主張は、その対象、すなわち『生命ある石』の非存在の主張の相関体である。ここでは相関的主張は至るところで不可分に一体である。— Frantz Brentano, Sittl. Erk., S. 60; Wahrheit und Evidenz, S.45 Anm. (小倉(1986) pp.114-115) 」 ブレンターノの判断理論の問題は、全ての判断は存在論的判断であるという考えであるというところではなく(普通の判断を存在論的なものに変換するのはしばしば非常に困難であるものの)、本当の問題は、ブレンターノが対象と表象の区別を行わなかったというところである。表象はあなたの心の中で対象として存在する。したがって、あなたは A が存在しないと実際に判断することはできない。なぜならば、もしかしたらあなたが表象がそこに無いとも判断するかもしれないからである(全ての判断は表象として判断される対象を持つというブレンターノの考えによれば、これは不可能である)。カジミェシュ・トヴァルドフスキはこの問題を認め、対象は表象と等価であるということを否定することでこの問題を解決した。これは実際にはブレンターノの知覚の理論の変更に過ぎないが、判断の理論においても歓迎すべき結論をもたらす。すなわち、(存在する)表象を持つことはできるが、同時に対象が存在しないという判断もできる。 後期(二重判断論)
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