再発見-相馬御風の発想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
「糸魚川のヒスイ」の記事における「再発見-相馬御風の発想」の解説
ヒスイ再発見のきっかけとなったのは、糸魚川の出身で『都の西北』、『春よ来い』などの作詞で知られる文人、相馬御風の閃きであった。相馬は故郷糸魚川への帰住後、島村抱月の葬儀に上京した以外には一生涯東京に足を踏み入れなかった。帰住後の相馬は良寛研究や郷土史の研究に没頭し、有志とともに長者ヶ原遺跡を始めとする近在の遺跡の発掘に取り組んでいた。 相馬は「ヌナカワ」という地名や「ヌナカワヒメ」を祭神とする神社の鎮座を根拠として、古事記などに登場する沼河比売(奴奈川姫)の基盤はこの地方にあると考えた。さらに遺跡発掘を通して「ヌナカワヒメ」と玉作りの関連性に思い至り、奈良時代を境に日本の歴史から消えたヒスイについて、糸魚川産ではないかと考えた。 相馬は1935年(昭和10年)の夏前、自宅を訪れた鎌上竹雄(1889年-1974年)にこの話を伝えた。鎌上は元糸魚川警察署長で、その時分には大所川(姫川の支流)にある発電所の管理人を務めていた。鎌上はその日、発電所への帰路で伊藤栄蔵(1887年-1980年)の家に泊まった。伊藤は鎌上の長女の義父にあたり、両家は親戚づきあいをしていた。鎌上が伊藤に相馬から聞いたヒスイの話をしたところ、伊藤はその話に興味を抱いた。 発電所の管理などで時間のない鎌上に代わって、土地鑑のある伊藤がヒスイ探査を行うことになった。実際に探査を始めたのは、梅雨が明けて川の水量が少なくなった同年8月10日であった。開始当日の調査範囲には、現在の小滝川ヒスイ峡にあたる地域も含まれていたが、このときは気づかずに通過している。伊藤は1日置いた8月12日に2回目の探査に出かけた。このときはヒスイ峡よりさらに上流部の小滝川を遡ってみたが、それらしい石は見つからなかった。 そこで伊藤は小滝川の本流だけではなく、支流にも探査の範囲を広げた。支流の土倉沢(つちくらざわ)に分け入ってみたところ、小滝川との出合付近に位置する滝の下にある滝壺(幅13-14メートルくらい)で「見たことのない青いきれいな石」を見つけることができた。後に伊藤が記したところでは、その重さは100貫(約375キログラム)ほどであった。持参したハンマーが小型だったせいでこのときは米粒程度のサンプルしか採取できなかったため、伊藤は同月19日に大型のハンマーを携えて土倉沢に向かった。 伊藤は5貫(約19キログラム)ほどの石をハンマーで割り取り、その中から300匁(約1125グラム)ほどの2個の石を相馬に届けた。これを見た相馬は、「これはヒスイに間違いない…」と言って安堵した様子だったという。ただし、伊藤の記録では相馬にヒスイを届けた日時が見あたらない。
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