入蒙記
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1924年(大正13年)、第一次大本事件で責付出獄中にも関わらず蒙古に渡航、馬賊を率いて活動したななことは、妻すみ(澄)や教団幹部を含め、人々を仰天させた。村上重良は「日本の大陸進出の一環であった」「宗教を大陸侵略に利用した」として否定的な評価を下す。松本健一は王仁三郎の根底に「神に選ばれた使命感」があったと指摘し、民族を越えた万教同根の理想を実現するためさまざまな勢力を利用した結果と述べている。名刺では「弥勒下生達賴喇嘛(みろくげしょうだらいらま)、素尊汗」、日本姓名「源日出雄 瑞月」、朝鮮姓名「王文泰 天龍」、民国姓名「王文祥 尋仁」と名乗る。出発を見送った信者によれば、5-6年は帰らぬつもりだったという。 6月20日、王仁三郎や植芝盛平ら6名は張作霖によって捕らえられ、銃殺を宣告される。機関銃を修理する間に「身はたとえ 蒙古の野辺にさらすとも 日本男児の品は 落とさじ」「いざさらば 天津御国に かけ昇り 日本のみか 世界まもらん」「日の本を 遠く離れて 我は今 蒙古の空に神となりけむ」「我を待つ 天津御国の わかひめを いざしに死に行かん 敵のなかうど」と辞世を詠み、さらに植芝ら5名の歌も代作している。後に事件を回想し、銃殺の時に幽体離脱をした結果、日本に帰っても「現界か霊界か、現実感がなかった」と述べている 『霊界物語、入蒙記』に、王文泰という父親をもつ女馬賊・籮龍との交流を描いたエピソードがある。妻・すみは自伝の中で「王仁三郎から蒙古で出口清吉(なおの次男、近衛兵)の娘と会ったと聞いた」と述べている。公式記録によれば清吉は明治28年7月7日、台湾で病死したが、遺骨が返還されたにも関わらず脱走や水葬されたという噂があり、なおの「筆先」には「死んでおらん」という啓示が出ていた。なおは長く啓示を信じていたが、晩年は神のなおに対する慰めと解釈していたという。 『日出新聞』明治33年8月13日付2面に北清事変で活動した日本人軍事探偵「王文泰」の記事が載り、衝撃を受けた王仁三郎は歌集『青嵐』にいくつかの和歌を載せた。さらに教団内で王仁三郎に敵対していた福島久(なおの三女)に対し清吉が馬賊として活動中という書簡を渡している。 王仁三郎は入蒙直後から日本軍憲兵隊によって尾行されていた。諜報員の長谷川久雄は戦後の取材で王仁三郎について「着物を着て靴をはくような服装をかまわない人。乗馬は上手ではなかった」と回想し、『霊界物語・入蒙記』に記載されていない行動について語った。後に、長谷川は関東軍に協力した日本人道士「王清泰」と行動を共にする。 出口清吉が諜報員として中国で活動し、王仁三郎の入蒙目的の一つに清吉(王文泰)との対面があったともいわれる。昭和初期、出口すみは娘婿・高見元男こそ清吉の生まれ変わりであると信じ、王仁三郎も出口直日と元男の婚儀内祝宴でそれを認め、元男を出口日出麿と名乗らせた。一方、太平洋戦争後出版されたすみの自伝では「清吉は王文泰」と語られている。 入蒙前は健康な歯だったが、『霊界物語』最終篇の口述筆記時(1933年)には総入れ歯となっており、長時間喋ると口が重いと周囲に訴えている。
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