入蒙記とは? わかりやすく解説

入蒙記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:41 UTC 版)

出口王仁三郎」の記事における「入蒙記」の解説

1924年大正13年)、第一次大本事件責付出獄中にも関わらず蒙古渡航馬賊率いて活動したななことは、妻すみ(澄)や教団幹部含め人々仰天させた。村上重良は「日本大陸進出一環であった」「宗教大陸侵略利用した」として否定的な評価下す松本健一王仁三郎根底に「神に選ばれ使命感」があったと指摘し民族越えた同根理想実現するためさまざまな勢力利用した結果述べている。名刺では「弥勒下生達賴喇嘛(みろくげしょうだらいらま)、素尊汗」、日本姓名「源日出瑞月」、朝鮮姓名王文天龍」、民国姓名王文祥 尋仁」と名乗る出発見送った信者によれば5-6年帰らぬつもりだったという。 6月20日王仁三郎植芝盛平ら6名は張作霖によって捕らえられ銃殺宣告される機関銃修理する間に「身はたとえ 蒙古野辺にさらすとも 日本男児の品は 落とさじ」「いざさらば 天津御国に かけ昇り 日本のみか 世界まもらん」「日の本遠く離れて 我は今 蒙古の空に神となりけむ」「我を待つ 天津御国の わかひめを いざしに死に行かん 敵のなかうど」と辞世詠み、さらに植芝ら5名の歌も代作している。後に事件回想し銃殺時に幽体離脱をした結果日本帰っても「現界霊界か、現実感がなかった」と述べている 『霊界物語、入蒙記』に、王文泰という父親をもつ女馬賊・籮龍との交流描いたエピソードがある。妻・すみは自伝の中で「王仁三郎から蒙古出口清吉(なおの次男近衛兵)の娘と会った聞いた」と述べている。公式記録によれば清吉明治28年7月7日台湾病死したが、遺骨返還されにも関わらず脱走水葬されたという噂があり、なおの「筆先」には「死んでおらん」という啓示出ていた。なおは長く啓示信じていたが、晩年は神のなおに対す慰め解釈していたという。 『日出新聞明治33年8月13日2面北清事変活動した日本人軍事探偵王文泰」の記事載り衝撃受けた王仁三郎歌集青嵐』にいくつかの和歌載せた。さらに教団内で王仁三郎敵対していた福島久(なおの三女)に対し清吉馬賊として活動中という書簡渡している。 王仁三郎は入蒙直後から日本軍憲兵隊によって尾行されていた。諜報員長谷川久雄戦後取材王仁三郎について「着物着て靴をはくよう服装かまわない人。乗馬は上手ではなかった」と回想し、『霊界物語・入蒙記』に記載されていない行動について語った。後に、長谷川関東軍協力した日本人道士王清泰」と行動共にする出口清吉が諜報員として中国活動し王仁三郎の入蒙目的一つ清吉王文泰)との対面があったともいわれる昭和初期出口すみ娘婿高見元男こそ清吉生まれ変わりであると信じ王仁三郎出口直日と元男の婚儀内祝宴でそれを認め、元男を出口日出麿と名乗らせた。一方太平洋戦争後出版されたすみの自伝では「清吉王文泰」と語られている。 入蒙前は健康な歯だったが、『霊界物語最終篇の口述筆記時(1933年)には総入れ歯となっており、長時間喋ると口が重い周囲訴えている。

※この「入蒙記」の解説は、「出口王仁三郎」の解説の一部です。
「入蒙記」を含む「出口王仁三郎」の記事については、「出口王仁三郎」の概要を参照ください。

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