入蜀までの経緯とは? わかりやすく解説

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入蜀までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:32 UTC 版)

劉備の入蜀」の記事における「入蜀までの経緯」の解説

208年赤壁の戦い後、劉備荊州江南諸郡を制圧し大きく勢力伸ばしたこの後劉備以前からの諸葛亮進言通り益州劉璋攻め落とす機会狙っていた。赤壁ではともに戦った孫権もまた益州狙っていたが、周瑜死によって単独益州侵攻諦め益州協力して攻撃することを劉備持ちかけた。劉備陣営ではこの提案乗るべきだという意見もあったが、殷観が、孫権軍先駆けとなって益州攻撃するよりも、孫権への態度曖昧にした上で独力で益州攻め取るべきだと意見した為、劉備殷観提案従い孫権益州攻撃賛成しつつも「今は荊州得たばかりであり、準備ができていない」と返答する果たし孫権益州攻撃断念した211年益州牧の劉璋のもとで別駕従事として仕え張松は、劉璋に対して曹操張魯勢力対抗するために劉備引き入れることを進言した。劉璋陣営では当初曹操との提携模索していたが、荊州支配し増長した曹操使者冷遇を受け、その後曹操勢力荊州から後退するに伴い曹操との提携話は立ち消えとなっていた。このとき曹操冷遇され使者張松であった張松密かに惰弱な性格である劉璋見限り劉備新たな君主迎えようとする狙い持っていた。 劉璋黄権劉巴らが反対する中でこれを聞き入れて法正孟達使者として派遣する。しかし、この二名張松仲間であり、劉璋廃立ようとしていた。法正劉備益州を取る方策語り、これに従った劉備要請があったことを名目黄忠軍師として龐統伴い兵力率いて蜀に入り、涪に至ったところで劉璋は自ら劉備出迎えた法正龐統らの参謀はここで劉璋暗殺するように進言したが、劉備益州入ったばかりであり、人心を得るのが先決であるとこれを却下した劉璋劉備に兵や戦車武器や鎧などを貸し劉備軍総勢3万人となった。そして劉璋要請に応じて張魯討伐に赴き、葭萌関駐屯する。しかし劉備目立った軍事行動起こさず人心収攬などに務め、蜀征服足掛かりを築くことに努めた

※この「入蜀までの経緯」の解説は、「劉備の入蜀」の解説の一部です。
「入蜀までの経緯」を含む「劉備の入蜀」の記事については、「劉備の入蜀」の概要を参照ください。

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