候補者の提案
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「1880年共和党全国大会」の記事における「候補者の提案」の解説
土曜日の夜、州名のアルファベット順で候補者提案が行われた。ミシガン州代議員は70歳のミシガン中央鉄道社長ジェイムズ・F・ジョイであり、ジェイムズ・G・ブレインを推薦した。ジョイは大衆の面前での演説に慣れていなかったので、「我々は今投票まで待てない状態にあるので」推薦演説は言葉が詰まり、掻い摘んで済ませた。ジョイは共和党公認候補に「ジェイムズ・S・ブレイン」を推薦することでその演説を終えた。すぐさま、多くの代議員が「G! G・ブレイン、馬鹿者!」と横槍を入れた。次の順番はミネソタ州であり、同州出身のウィリアム・ウィンダム上院議員を推薦した。それから9つ目の州となったニューヨーク州のロスコー・コンクリングが演台に進み、ユリシーズ・S・グラントを推薦した。 さて彼がどの州の出身かを問われたならばこれしかないという答えは彼はアポマトックス出身である その有名なリンゴの木の出身である 15,000人の聴衆が万歳を叫んだ。コンクリングは聴衆のエネルギーをその演説に乗せ、続いて「ニューヨーク州はユリシーズ・S・グラント。一度も敗れていない。平時でも戦時でも一度も敗れていない。その名前は生きている者によって最も傑出した形で覚えられている」と言って候補者を紹介した。コンクリングはさらに、グラントのアメリカ国民に対する忠誠心について話し、3期目の問題を持ち出したグラントの敵を叱った。コンクリングは、グラントが正直な人間であることを示そうとして、「互恵関係無く、特使も無く、委員会無く、局も無く」代議員を獲得したことを訴えた。コンクリングが演説を終えた後、ブレインやシャーマンの陣営からブーイングや「シー」の声があがり、一方ストールワートのグラント支持者は拍手喝采した。ノースカロライナ州の順番のあとオハイオ州の代議員団はジェームズ・ガーフィールドが代表して、ジョン・シャーマン推薦の演説を行った。 ガーフィールドは演説原稿を書いておらず、そのような大群衆のまえで演説を行うことに非常に神経質になっていた。シャーマンはシカゴに向かう前に「彼が採用したいかなる方向にも勇気を与えることを続けた」と強調するよう伝えていた。 ガーフィールドは、この大会での自分の役割について大きな誇りを持っていることを強調して演説を始めた。続いて大統領が所有すべき特質を数え上げ、党の統一の重要性を強調した。演説の最後近くなってシャーマンの名前を挙げた。 ガーフィールドの演説に関する多くの報告書は、その熱心さ、雄弁さ、受け取られ方の良さを挙げていた。ある証言では、大変受けが良かったので、代議員達にガーフィールドを大統領候補の競合者として考え始めさせたことを示すものもあった。 一方で、シャーマン支持派の者にはガーフィールドの演説を全く嫌った者もいた。シャーマン支持者からシャーマン自身にあてた電報には「ガーフィールドは貴方に何の貢献もしていない。かれはその支持の仕方が極端に生ぬるかった」と非難していた。グランド・パシフィック・ホテルで隣接するスイートルームに宿泊しているオハイオ州知事チャールズ・フォスターとガーフィールドが「ガーフィールドを候補者に持ち出す陰謀を立てている」という噂が広がり始めた。シャーマンの陣営で責任を追及する報せが国中の新聞にもたらされた。「オールバニ・イブニング・ジャーナル」は「オハイオ州代議員団はシャーマン陣営から脱出し、まるごとブレインに行く用意があるという一般的な考えがある」と報じた。 ガーフィールドはその演説後に代議員の間で人気が出ていたが。シャーマン支持者の中の者達から出たとされる告発で動揺し、将来にどう響くのかを心配していた。親しい仲間はガーフィールドが余りに急速に大きな人気を得たと感じていた。ロレンゾ・コフィンのような友人は「まだその時ではない」と感じていた。ガーフィールドは友人の助言を容れられたが、既に代議員に大きな印象を与えてしまっていた。6月6日日曜日遅い時間、元大統領ウィリアム・ハリソンの孫でインディアナ州の上院議員ベンジャミン・ハリソンが、ガーフィールドのホテルの部屋に来て、どのような条件なら共和党公認を受け入れるかを尋ねた。ガーフィールドはジョン・シャーマンを支援するという目的だけで大会に来ており、ハリソンには即座に自分の「名前は(指名に)使われてはならない」と告げた。
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