信号司令部と南北戦争
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「アルバート・マイアー」の記事における「信号司令部と南北戦争」の解説
1860年6月21日、アメリカ合衆国陸軍省からの手紙で、マイアーが実効の上がらない信号司令部を新しく組織し、指揮を執るよう命令を伝えてきた。その命令は機器の予算として2,000ドルと、6月27日付けでマイアーの少佐昇進も承認していた。マイアーは軍隊の他部署から選抜できる部下を募集する責任に直面した。信号司令部は、マイアーが大佐に昇進した1863年3月3日まで公式の軍隊組織として始動しなかった。この期間、マイアーはまずベンジャミン・バトラー少将の下でバージニア州モンロー砦に勤務して、教育キャンプを設立し、続いてジョージ・マクレラン少将のポトマック軍で信号士官長となり、半島方面作戦からアンティータムの戦いまで従軍した。この期間に、ハノーバー・コートハウスの戦いでの功績で正規軍の中佐に、マルバーンヒルの戦いで大佐にそれぞれ名誉昇進した。 皮肉なことに、マイアーの信号伝達法を戦場で使ったのは南軍のエドワード・ポーター・アレクサンダー大尉であり、1861年7月の第一次ブルランの戦いでだった。アレクサンダーはマイアーの部下であり、ニューヨーク港で現場テストをしたときに助手を務めていた。 マイアーはその無線送信術に加えて野戦での通信に電気信号を送る必要性を認識した。ベアズリー・テレグラフと呼ばれる装置を支援するために野戦用電信輜重隊を導入した。これはモールス信号のキーを叩く代わりにダイアルを回すものであり、送信士の訓練をあまり必要としないように開発された。 マイアーの信号司令部は事実上、民間の電信士を主に使っている陸軍省の部局である陸軍電信部とは別の組織だった。この機能については陸軍長官補と多くの組織上の論争を行い、何度かは電信操作全てを統御しようとした。信頼性に劣るベアズリー・テレグラフ装置を排除し、信号司令部に電信士訓練者を引き抜こうとした時に、陸軍長官エドウィン・スタントンが1863年11月15日にマイアーをその信号士官長の地位から解任し 、ワシントンD.C.から追い出す任務を与えて、実質的に追放した。 マイアーはイリノイ州カイロからテネシー州メンフィスまでのミシシッピ川を定常的に偵察行動する中で、「アメリカ合衆国陸軍と海軍のための信号マニュアル」を書いた。1864年6月、エドワード・キャンビー少将がマイアーを西ミシシッピ地区軍信号士官に指名した。マイアーはキャンビーの下で、北軍側に入ってくる脱走兵や逃亡者を尋問するための仕組みを考案することで信号司令部の仕事に新しい任務を付け加えた。また、陸軍と海軍の間で日常的な伝言を送信するための符号送信システムを開発した。アラバマ州モービル地区での作戦のために通信計画を作成し、アメリカ海軍と共にゲインズ砦の降伏に立ち会った。1864年8月から1865年に掛けては、メキシコ湾方面軍の信号士官となった。 マイアーはモービル方面作戦を準備している時に、1863年に解任される以前に受けていたはずの大佐と信号士官長の指名がアメリカ合衆国上院において確認されずに撤回され、このために少佐の位に戻ったという面白くない報せを受け取った。マイアーは1865年初期に、弁護士や政治的コネを使ってこの不当と考える処置を正そうと試みた。1866年7月28日、ユリシーズ・グラント中将とアンドリュー・ジョンソン大統領の影響力に反応する形で、議会は信号司令部の再組織化を認め、マイアーは再び大佐の位と信号士官長を手に入れた。宿敵エドウィン・スタントンがそのマイアーの復職について伝えなければならなかった1866年10月30日、マイアーはこの勝利の報せに特に喜んだ。マイアーは1867年2月までその地位を確認されず、1867年8月まで実際の任務に就く命令もなかった。その新しい任務には電報運営の統御も含んでおり、彼をその地位から外すことになった論争も解決した。 マイアーは1865年3月13日付けで、信号司令部を創設した功績に対し、准将への名誉昇進を受けた。正規軍准将としての発令はその死の2ヶ月前になる1880年6月16日に来た。
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