使節とは? わかりやすく解説

使節


使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 14:20 UTC 版)

ジェローム・ホーセイ」の記事における「使節」の解説

1581年11月末、ホーセイはイヴァン4世からエリザベス1世宛てた瓶詰め親書届けるよう命じられたが、北東航路凍っていたため陸路での移動だった。旅は非常に困難で、さらにデンマーク領のエーゼル島逮捕された。ところが島の総督夫人偶然にもかつて自分助けたマデリン・フォン・ユクセルであり、彼女の計らいですぐに釈放された。イングランド到着するジェロームエリザベス1世何度謁見許されイヴァン4世親書を英語に翻訳して読み上げた。この時の親書では、イングランド王女イヴァン4世の妻に迎えたい意向伝えられた(これは実現されなかった)。 ホーセイはモスクワ会社以外の冒険商人集めてきた物産品を含む、土産積み荷搭載した9艘の船でロシア向かった2度目訪露)。1586年にホーセイは再びイングランドに新ツァーリフョードル1世親書携えてロンドン宮廷戻ってきた。この親書には「妃が妊娠しにくく、子供出来ないので力を貸してほしい」と書かれていた。イングランド宮廷はホーセイに助産婦を伴わせてモスクワへ向かわせた(3度目訪露)が、この助産婦ヴォログダモスクワ入り拒まれた。これはフョードル1世の妻の兄で宮廷実力者であるボリス・ゴドゥノフと、その敵対勢力との政争道具になったのであるボリス対抗派閥は「ボリス異教徒の手借りて皇子を産ませようとしている」とボリス糾弾したのである。ホーセイ自身西欧文化憧れを持つボリスとは友人関係にあった。 ホーセイはロシア政府依頼により、王家一員であるマリヤ・ウラジーミロヴナ救出したマリヤリヴォニア戦争での戦略一環としてイヴァン4世傀儡立てたリヴォニアマグヌス結婚したが、夫の死後囚われの身となっていた(ホーセイは1581年末にイングランドへ向かう途中、ピルテンでリヴォニア夫妻謁見している)。ホーセイはマリヤとの結婚望んだが、ボリスは彼が平民であることを理由にこれを許さなかった。こうしたなか、1587年にホーセイはイングランド詐欺罪問われたために帰国せざるを得なくなったが、宮廷内の友人たち弁護もあって事なきを得た1591年にホーセイはロシア戻った4度目訪露)が、フョードル1世彼に謁見許そうとせず、エリザベス1世2度とホーセイにはロシア国土を踏ませないよう要求した。さらにイングランドでは彼に公然たるスパイ行為働いている」という疑いがかかり、結局は故国に戻ることとなった友人であるボリスはホーセイの帰国の旅のお膳立てをしたうえ、彼に沢山の高価な贈り物持たせている。

※この「使節」の解説は、「ジェローム・ホーセイ」の解説の一部です。
「使節」を含む「ジェローム・ホーセイ」の記事については、「ジェローム・ホーセイ」の概要を参照ください。

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