作文家時代
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1980年冬、雑誌『HEAVEN』の編集長を退き、編集者から作文家に転身する。 以降『朝日新聞』からエロ本まで幅広く作文活動を行い、最盛期には14本にものぼる連載を同時にこなす。 また1980年代から1990年代にかけて『ガロ』『宝島』『ヘイ!バディー』『フィリアック』『サバト』『写真時代』『写真時代Jr.』『スーパー写真塾』『ビデオ・ザ・ワールド』『月刊TVガイド ビデオコレクション』『ボディプレス』『アクションプレス』『週刊プレイボーイ』『週刊アサヒ芸能』『アサヒグラフ』『Boom』『Crash』『ON STAGE』『SALE2』『福娘』『噂の眞相』『夜想』『ルーシー』『スティック』『エキセントリック』『アリス・クラブ』『S&Mスナイパー』『流行通信』『おとなの特選街』『月刊スパイ』『RM』『アックス』『BURST HIGH』など多数の雑誌で連載を持ち、エロ、性的逸脱、ドラッグ、ギャンブル、バットテイスト、モンドカルチャーなどアンダーグラウンドなサブカルチャーの分野にも多大な影響を与えるが、高杉弾名義での著書が4冊しかないため、その活動の全貌はつかみがたい。 1981年、日比谷野外音楽堂で行われた『HEAVEN』主催の伝説的音楽イベント「天国注射の昼」のコンセプト・ドクター役を務める。この年、ボブ・マーリーが36歳の若さで他界。 1982年、伊達一行の小説『沙耶のいる透視図』(のちに映画化)に登場するビニ本編集者(演・土屋昌巳)のモデルとなる。同年9月、筒井康隆原作、内藤誠監督の映画『俗物図鑑』に端役として出演。この頃からシーメールとステレオ写真に興味を持ちはじめる。 1984年、JICC出版局(現・宝島社)より代表作にして初単行本の『メディアになりたい』を上梓。 1985年、輸入ビデオクラブ「セカンドハウス」を設立してビデオ版『メディアになりたい』『スーパー・カットアップ』を自主制作。 この頃、劇作家の高取英が主宰するカルチャーセンターに講師として登壇し、自販機本からアダルトビデオまでのポルノ黄金期を3時間に渡って語り下ろす。講演の内容は同年7月に『霊的衝動 100万人のポルノ』(朝日出版社)として週刊本レーベルから刊行された。同年、週刊漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で手塚眞原作の立体写真漫画の撮影と監修を担当する。 1986年頃から「MONDO」という不思議なアメリカ文化を「ひょっとこ」と超訳して『宝島』などのサブカルチャー雑誌で日本に紹介しはじめる。この頃、損害保険代理店資格(初級・普通)を取得し、有限会社S興産(資本金14億円)の代表取締役社長となる。 1987年、にっかつ撮影所との共同企画で「MAGMAビデオ」を設立し、1920年代の実験映画5タイトルを発売する。同年、元『HEAVEN』編集者の山本勝之とモデルの中村京子らと香港、マカオ、ロサンゼルスを旅行し、香港で大型トレーラーにはねられるも軽傷。帰国後、目黒駅で駅員を暴行し、書類送検されるも不起訴となる。
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