伯父との相続争い
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文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収された(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)。大井教寛は『吾妻鏡』がこの時に所領を「召分(召し分けた)」と記しているところに注目し、また同書の承久元年2月2日条に熊谷郷が鶴岡八幡宮領になっていたとする記述や『熊谷家文書』の所領関係の文書を照らし合わせて、この時頼朝が没収したのは熊谷郷の東半分でそのまま鶴岡八幡宮に寄進されたことを明らかにし、更に直実没後の熊谷氏と鶴岡八幡宮の境界争いの結果、貞永元年(1232年)の鎌倉幕府の裁許によって、没収の対象外である筈の熊谷郷の西半分も鶴岡八幡宮領とされて八幡宮と地頭熊谷氏は地頭請の関係にあるとされてしまったとしている。 建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』)。 この争いの背景には、直実が抱えていた立場の弱さがあった。久下直光は孤児となった直実を庇護した上に本来久下氏の支配下にあったとみられる熊谷郷を領したが、それは久下氏の立場から見れば、直実を自己の郎党もしくは客将として捉え、それを前提として預けたものであったとみられる。その弱さは「直光代官」として上洛して大番役と務めていたこと、熊谷氏の系図の中に直実の娘が直光の妻となったとするものがあることなどから知ることができる。その後、直実は直光から自立して自らの力で自らの所領を支配する武士になることを目指し、平氏との戦いを通じて御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められた。だが、それは直光から見れば、久下氏の所領である熊谷郷を直実に奪われたと強く反発し、直実との衝突につながったと考えられている。 なお、『熊谷家文書』所蔵の建久2年(1191年)3月1日付け直実譲状には「地頭僧蓮生」とあり、この書状が正しければ直光との訴訟の前年にはすでに出家していた事になるが、林譲がこの譲状と現存する他の直実自筆の筆跡や花押を比較した結果、この譲状は直実が作成した実物であると断定した。つまり、建久3年に直実が髻を切ることは不可能であり、『吾妻鏡』の記述に何らかの脚色・曲筆があったということになる。また、この譲状では嫡男の直家らの同意の署名と共に、庶子である「四郎家真」。に熊谷郷を譲ることが記されており、近年ではこの譲状を根拠の1つとして後世の熊谷氏の系図で伝えられた「直実-直家-直国」とする系譜は後世改竄されたもので、承久の乱を機に熊谷氏の嫡流が直家の系統から家真の系統(直国は家真の子と推定)に交替したとする新説も出されている。
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