他の相撲人との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 16:31 UTC 版)
前田山英五郎 床寿の入門時点で4代高砂を襲名しており、入門時の師匠。床寿は「とにかく怖かった。けれど、決して古風ではなかった」と前田山を評している。同時に「稽古土俵を部屋に2面(1面は俵のある土俵、もう1面は俵のない皿土俵)造ったのも、前田山さんが初めてじゃないですか」と主張しており、この皿土俵は今の高砂一門にも受け継がれている。床寿は皿土俵のメリットについて、単純に俵を作る予算がかからずに済むこと、俵に足をかけて足をひねって怪我をするリスクがなくなることを挙げている。床寿によると、前田山は一見箸にも棒にもかからない力士に「もっと稽古せい!」と余計に力を入れて指導したようであり、そのおかげで素質に恵まれていない力士も十両くらいまでには上がれたという。 朝潮太郎 (3代) 5代高砂を襲名していた頃の3代朝潮は、床寿に言わせれば"竹刀専門"であり、教え方はくぐもった声で「コラー!バカヤロウ!」と決して器用ではなかったが厳しい指導をしていた。一方、いかつい風貌とは正反対に性格の柔らかい、優しい人物で、私生活のことまで細かく言うことはなかった。前田山が4代高砂として部屋を持っていた頃はちゃんこが粗食であったが、3代朝潮が5代高砂として部屋を仕切っていた頃は「高砂のちゃんこはおいしい」と評判が良くなり、そのおかげなのか後援者が増え、後援会も東京、名古屋、大阪、九州と各地にできたという。そのちゃんこの旨さは北の富士も「最高だ」と評するほどであり、北の富士はちゃんこ目当てだったのか3代朝潮が師匠を務めるようになってから頻繁に部屋に出稽古しに来るようになったという。 若筑波茂 努力に努力を重ねて出世した力士の方が好きである床寿にとって、小さい体で十両まで昇進した若筑波は特にお気に入りの力士であった。 高見山大五郎 50年の床山生活の中で見てきた一番の努力家と評する力士。生活環境も食物も言葉も何もかも違う中で、ハワイが恋しくていつも泣いていた高見山であったが、床寿はその中で慰め役、励まし役を務めた。「泣くな、強くなったら、お金もたくさんもらえる。それまで我慢して頑張れ」と声を掛けたという。 富士錦猛光 6代高砂を襲名していた富士錦は、決して偉ぶることのない師匠で、力士達には細かく指導しており、教え方も上手かった、と床寿は説明している。床寿によるとまた、贔屓筋を掴むのも得意であり、交渉術にも長けていた。 小錦八十吉 (6代) 小錦については、大関に上がっただけに素質に恵まれ、頭もよかったと後に述懐している。だが出世が早かった分マスコミに囲まれ、贔屓筋からもチヤホヤされていた小錦を僻む力士がいたため、床寿は小錦に対して「もっと稽古して、黙らせるくらい強くなりゃいいじゃないか」と声を掛けた。床寿は小錦の髪を結うのに苦労したため、床寿の妻が勤めていた美容院に行かせてその癖の強い縮れ毛にストレートパーマをかけさせた。後に床寿は「相撲取りにストレートパーマをかけさせたのは私が最初だと思いますよ」と主張している。小錦の母は入門に難色を示していたが、床寿が小錦に渡す小遣いと飛行機代を高見山に持たせたことが決め手となって入門に至ったという。 千代の富士貢 床寿は千代の富士の髪質について、ほんの少しだけ縮れがかっている素晴らしい髪質と評価している。床寿にとって千代の富士は相撲が強くて、大銀杏が似合う、言うことなしの力士であったが、強いて言えばちょっと生意気で小うるさい部分があったという。それでも床寿は千代の富士が大銀杏の出来栄えについて小うるさく指摘するからこそ一生懸命向上しようと思えたという。 朝青龍明徳 朝青龍は床寿を「日本のお父さん」と呼んでくれたが、床寿は「よく言えば前向きで、根性のある性格だったけど、悪くいえば、態度も言葉遣いも粗削りで、ロクなもんじゃないというのが一般的でしょう(笑)」と言っている。同時に、自身が髪を結っていなければ早い段階で相撲界を破門されていたのではないかと推測している。朝青龍は元々入門時に所属していた若松部屋という小さい部屋で育って出世も早く、相撲界のこともきちんと理解していなかったため床寿は早期に横綱に昇進していた朝青龍に必要に応じて「横綱、それは違うんだよ」と諭したという。初めから朝青龍は床寿の話に対して聞く耳を持っていたという訳ではないが、朝青龍本人もいろいろ経験していく中で「ジュさんの言うことは本当だな」と感じ取ってくれたのだ、と床寿は思っている。停年を記念した記事では床寿は「朝青龍は、やんちゃなところもあるけれど、勝負師だもの、サラリーマンじゃないんだもの、多少のことは大目に見てやらなくちゃ。そういう勢い、勝負師の魂というか、根性があるときは強いんだよ。それでいて、彼は、いまの日本人が忘れている、親や兄弟への思いやりが篤い人でね。昔の日本人の良さを思い出すね。日本人の心をもったモンゴル人だよ。モンゴルの江戸っ子だよ。気っ風もいいしね」とも話している。強気な朝青龍も床寿の前では弱音を吐くことがあった。床寿は全盛期の朝青龍を「5本の角がある闘牛」と表現し、衰えが見られたころには「その角が2本しかなくなって普通の闘牛になった」という内容の表し方をした。
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