今東光脱退事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:42 UTC 版)
菊池寛は、今東光の中傷に対してすぐさま反論し、東光のことを「小人邪推」「ユダ」と一刀両断に切り捨てた。そして直木三十三の書いた「文壇諸家価値調査表」の非礼に陳謝しつつも、その表を『文藝時代』同人を傷つける目的だと邪推することは「自惚れも甚しい」と東光を叱った。また、自分は多忙のため最近の編集担当は菅忠雄に一任していたため、その表は一瞥したにすぎないと述べた。 『文藝時代』対『文藝春秋』との問題についても菊池は言及し、『文藝春秋』の同人制を廃止した理由を、「既成文壇反対の『文藝時代』と、既成文壇肯定の『文藝春秋』の同人が、同一である不体裁を、彼等の為にも、『文藝春秋』の為にも除きたかつたのだ」と説明し、以下のように語った。 「文藝時代」の創刊は、彼等にとつては当然の行動であり、必然のうごき方であらう。「文藝春秋」は、彼等同人の「文藝春秋」である前に、菊池寛の「文藝春秋」であり、「侏儒の言葉」の「文藝春秋」であり、直木三十三の「文藝春秋」であつた。殊に自分が、独裁を振つてゐたから年少気鋭の同人が、他に自由の新天地を、憧憬するのは、当然である。自分は、彼等に新雑誌創刊の企てあるを知るや、自分にとつては、やゝ寂しき必然として委細を問はず承諾したつもりである。殊に、自分との情誼を重んずる一、二の同人は「貴下が不賛成ならば自分は加入を拒絶する」とまで、云つて呉れた。だが、自分には、賛成不賛成を考える余地はなかつた。川端が了解を求めに来た時、あまりに軽く一諾し去つた為に、現「文藝時代」同人某氏の如きは、「もつとお考へになつては」と、注意してくれた程である。 — 菊池寛「小人邪推」 東光はこれに対して再び菊池に「卑しい書き方だ」と反論し、「『貴下が不賛成ならば自分は加入を拒絶する』若しくは『もつとお考へになつては』などと諛(へつら)つた者」があるなら「それは誰だ」と怒りを見せて、「所詮、新時代は反逆だ」と締め括った。 東光が反論を載せた同号には、「文壇諸家価値調査表」を書いたのは俺だと自白した直木三十三による「さあ来い」と題する一文が寄せられ、「さあ、殺すなら殺してくれ」「さあ殴るなら殴りに来い」と東光を挑発しながらも、「今君は僕の敬愛する友人である」とも書き、陰で悪口を言う連中は気に食わないとした。 東光はその後『文藝時代』同人から脱退し、『新潮』誌上で「文藝時代の三屑物は一に菅忠雄、二に南幸夫、三に○○○○、また文藝時代の三馬鹿は一に中河与一、二に加宮貴一、三に酒井真人」と(○○○○は伏字)、これまでの仲間も罵倒した。7月には、『文藝春秋』『文藝時代』に対抗する新潮社の『不同調』(中村武羅夫主宰)の創刊同人に参加し、東光はアンチ『文藝春秋』の急先鋒となった。『不同調』9月号は「菊池寛罵倒号」と言ってもいいほど菊池を激しく罵倒攻撃する号となった。 この東光と菊池の対立は文壇で大きな反響となり、東光はその後、村山知義、佐藤八郎、金子洋文らとプロレタリア系の『文党』を創刊して移籍した。東光ら同人は村山が描いた看板を胸と背に掛けながら、メガホンで桃太郎の歌の節で「既成文壇討たんとて」とチンドン屋まがいの行列で街を練り歩いた。 一方、川端の粘り強い説得で、『文藝春秋』との仲違いを免れた横光だったが、その時の怒りは、「いづれあんな背競べをマークされてゐて黙つてゐる奴ばかりもなからうと思ふが。もし黙つてゐる奴ばかりなら、そのときは俺一人、文壇と角力を取つて、負けても勝つてもいい、打ち死する覚悟」であった。 横光が川端の説得を聞き入れ、採点表を掲載した『文藝春秋』に対する怒りを収めた理由について東光は、「老母と若い細君を抱えた三文文士の生活では菊池寛の庇護を離れてはどうすることも出来なかったに相違ない」とし、当時の横光の貧乏だった境遇に触れて同情を寄せた。そして自分が横光と一緒に川端の下宿に行かなかったことを、「僕が横光と同行しなかったという事実は、まさに運命的だったと思う」と述懐している。 なお、川端が横光だけを守り抜き、東光の行動を止めなかったのは、血の気の多い東光が聞く耳を持たなかったであろうことと、マイナスからプラスに転じられる東光の激烈な強い性格や陽性の気質を熟知していたから、彼を放任したのではないかと研究者諸氏は見ている。 この一連の騒動で、東光が『文藝時代』まで脱退してしまい、新潮社の『不同調』やプロレタリア系『文党』に流れていったことで、期せずして、当初は微妙なところも察せられた『文藝時代』と『文藝春秋』の関係が完全修復し、以前よりも結成力が強くなるという皮肉な結果をもたらした。 騒動が終ってみれば、喧嘩っ早い東光一人が割を食った形となり、その後作家の地位を固めていった川端や横光を味方につけて盤石となった菊池は「文壇の大御所」として力を増し、『文藝春秋』は昭和の文壇において一時代を築いていくことになる。その後の昭和文壇の『文藝春秋』は左翼陣営から「ブルジョア文壇」の代名詞として猛攻撃されるようになるが、プロレタリア文学が文壇で幅を利かせるようになると、対立ぎみだった『新潮』陣営と『文藝春秋』陣営の不仲は完全に解消され、芸術派の作家らはその後新興芸術派などで大同団結するようになっていくことになる。
※この「今東光脱退事件」の解説は、「文藝時代」の解説の一部です。
「今東光脱退事件」を含む「文藝時代」の記事については、「文藝時代」の概要を参照ください。
- 今東光脱退事件のページへのリンク